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回向発願心

提供: 新纂浄土宗大辞典

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えこうほつがんしん/回向発願心

観経』に説く三心の一つ。「えこうほつがんじん」とも読む。善導観経疏』によると回向発願心とは、自己の修した過去現在の身体と口と心とで行ったすべての善い行為と、他人の修した同様の善い行為を讃歎する心とをすべて真実に深く信ずる心の中に振り向け(回向)て西方極楽浄土往生したいと願う(発願)心である。ここで真実(至誠心)深信(深心)の中に振り向けると説かれるように、三心の中、他の二心と不可分の心である。回向発願心の内容は、自他の善根功徳を振り向けて往生したいと願い、この心が往生を深く信ずる様は、あたかも金剛石のようにして、他のいかなる見解、学問、修行法にも惑わされず、一筋に阿弥陀仏本願を信じて往生する思いを遂げることにある。また二河白道譬喩の中において、釈尊阿弥陀仏二尊の勧めと招きにしたがって本願力に乗ずるならば、阿弥陀仏と間違いなく対面し限りない喜びに会うことができると信じて、すべての行動をいついかなる時でも阿弥陀仏に振り向けて、その姿を心に思い浮かべることを往相の立場での回向発願心と称している。また往生して覚りを開いた後、迷いの世界へ戻って衆生を迷いから教導することが還相の立場での回向であると示している。

法然は『選択集』において善導解釈をそのまま引き継ぎ、また『観経釈』(昭法全一二六)や『要義門答』(聖典四・三八九/昭法全六二六)において『観経』の三心と『無量寿経』の第十八願の三心とが相い対応していて同じものであり、「欲生我国」という極楽浄土へ生まれたいと願う心がそのまま「回向発願心」の内容であると示している。『七箇条制誡』(聖典四・三三六/昭法全八〇九)には、常に後戻りすることなく念仏し、至誠心深心を具えた上に数を定めて念仏相続することが回向発願心であり、念仏が途中で申されなくなればそれは回向発願心の欠如であるとされている。『浄土宗略抄』(聖典四・三六一~二/昭法全五九八~六〇〇)には、第一に自分自身が前世を含む過去において作った善根をすべてことごとく極楽浄土に振り向けて往生したいと願うこととし、第二に、一切の凡夫聖人のなした善根をも極楽浄土へ振り向けること、つまり他人の善根でも讃歎すれば、自分の善根と同じことになるからである、とする。しかし、自分自身にも他人に対しても、この世でのよい結果を祈ったり、後世であっても、極楽以外の浄土、もしくは人間界や天上界に生まれたいと願うなど、極楽浄土以外に願いを振り向けることをしてはならないとして、善根を振り向ける対象は唯一極楽往生のみと限定している。すなわち、もし過去において、誤った対象へ回向してしまった場合でも、現在において、ひたすら往生極楽への願いに振り向けるならば取り戻すことができると示唆している。最後に、念仏以外にことさらに善根を作り集めて振り向けよということではなく、ただ過去の誤った対象への善根であれば、現在はひたすらに極楽浄土に振り向けて、これから将来のことであれば、ありのままに機縁にしたがって、僧に対して物を供えて敬ったり、他人に物を施し与えることも、将来作るであろう善根も、みな往生のために振り向けることであるとして、具体的に例を示して解釈している。

聖光は『授手印』(聖典五・二三四/浄全一〇・五下)において、善導の本意を、すでに為し終えた五種正行をもちいて間違いなく往生することができるという心をおこすことであると定めている。また初めて専修念仏に入信したとき、南無阿弥陀仏と称える中に三心を具えているから、回向発願心もその中に納められて、南無の中に回向の意味も含まれると示している。さらに『授手印』(聖典五・二三五/浄全一〇・六上)において回向発願心に関する四句分別を展開し、良忠は『領解抄』(聖典五・二五五/浄全一〇・一六下)において、聖光の説をさらに詳細に展開して四句分別の中に往生の可否を定めている。


【資料】『観経』、『観経疏』、『観経釈』、『無量寿経』、『選択集』、『和語灯録』、『授手印』、『領解抄』


【参照項目】➡三心二河白道回向発願心の四句


【執筆者:村上真瑞】