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林霊法

提供: 新纂浄土宗大辞典

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はやしれいほう/林霊法

明治三九年(一九〇六)九月二〇日—平成一二年(二〇〇〇)三月七日。高蓮社徳誉道阿正学。百万遍知恩寺七二世。名古屋市大須にて林法純・志げの長男として生まれる。大正二年(一九一三)得度。同一三年三月東海中学卒業、昭和二年(一九二七)三月第八高等学校卒業、同五年三月東京帝国大学文学部哲学科卒業。同年四月大正大学に研究生として入学。同七年仏教法政経済研究所主事、同年一一月妹尾義郎の新興仏教青年同盟に入会。同一二年五月新興仏教青年同盟の中央執行委員長。同年一〇月二〇日治安維持法違反容疑で官憲に検挙される。同一三年一二月保釈。その間、同一三年二月には父を、同年五月には母を失う。この獄中における両親との死別によって宗教体験を一層深めていった。同一四年二月名古屋市養林寺主管を拝命。基本的には第二次世界大戦終了までは謹慎の身であった。戦後同二三年四月明生保育園開設(同二六年四月明生幼稚園となる)、同二五年二月から同三九年三月まで東海高校校長、同三二年には愛知県私学協会副会長。同三七年四月東海女子高校創立、校長となる。同三九年四月東海学園女子短期大学創立、副学長となる(学長椎尾弁匡)。同四〇年四月東海印度学仏教学会会長。同四三年四月東海学園女子短期大学学長。同四四年一二月から平成六年(一九九四)四月二六日まで大本山百万遍知恩寺法主。その間昭和五三年(一九七八)から同六三年まで、毎年浄土宗知恩寺仏跡巡拝団を組織し、随行して現地において釈尊の威徳を鑽仰し、参加者に大きな感銘を与えた。同六三年九月二日病に倒れ、療養中、平成二年(一九九〇)第四期目の法主となったが同六年四月健康上の理由により辞任。同一二年三月七日遷化。世寿九五歳。社会・教育・宗教などのあらゆる面における諸活動は信念と情熱にあふれるもので、その中心的関心事は常に仏教を現代に生きる人々の精神的な支柱たらしめようとすることであった。また師表椎尾弁匡の遺志を継承して、共生会運動の推進に尽力した。著書として、『現代を開眼する法然浄土教』(東海学園出版部、一九六九)、『法然浄土教と現代の諸問題』(百華苑、一九七一)、『妹尾義郎と新興仏教青年同盟』(同、一九七六)、『私の人生観—信仰と人生』(同、一九七七)、『五重講説』(一心寺、一九八〇)、『釈尊出現の意義と浄土教』(浄土宗、一九八一)、『法然浄土教と現代の精神状況』(百華苑、一九八五)、『インド仏跡思索行—わが心の旅路』(同、一九八七)、『椎尾弁匡先生と共生浄土教』(同、一九八八)などがある。


【参考】稲垣真美『仏陀を背負いて街頭へ』(岩波書店、一九七四)、小池健治他編『宗教弾圧を語る』(同、一九七八)、峰島旭雄・芹川博通編著『近代の法然論』(みくに書房、一九八二)、大橋俊雄『浄土宗人名事典』(斎々坊、二〇〇一)


【執筆者:服部正穏】