見仏の不同
提供: 新纂浄土宗大辞典
けんぶつのふどう/見仏の不同
臨終時の見仏が異なることをいう。『無量寿経』の三輩段では上輩に「寿終の時に臨んで、無量寿仏…その人の前に現じたまう」、中輩に「終りに臨んで、無量寿仏、その身を化現したまう」、下輩に「臨終に、夢のごとくにかの仏を見たてまつり」(聖典一・二四九~五一/浄全一・一九~二〇)と説かれる。一方『観経』の九品では上品三生と中品上・下生は阿弥陀仏を見、下品の上・中生は化仏を見ると説き、その他の生では見仏を説かない。法然は『逆修説法』一七日で、善導『観経疏』の十一門義を用い、すべての品に来迎はあるが、下品下生では罪が重いためこれを見ることができないのだとしている(昭法全二三三)。この二経の会通には中国以来議論があるが、良忠の『伝通記』定善義記は『無量寿経』の上輩と『観経』の上品三生は真仏、中・下輩と中・下品は化仏とする(浄全二・四一四下~五上)。これらは衆生の機根によって見仏の不同があるとする見解であるが、法然の「東大寺十問答」は念仏往生は報仏の来迎に与り、雑行による往生は化仏の来迎に遇う(聖典三・五三二/昭法全六四七)と、行の違いによって見仏の異なりがあると言う。
【参考】坪井俊映『浄土三部経概説』(隆文館、一九六五)
【執筆者:市川定敬】