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宅磨勝賀

提供: 新纂浄土宗大辞典

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たくまのしょうが/宅磨勝賀

生没年不明。一二世紀後半から一三世紀初めの絵仏師俗名宅磨為基たくまのためもとで宅間あるいは託磨、詫磨などと記され、また法名は証賀、澄賀ともある。真乗房と号す。平安時代から室町時代初頭まで存続した、絵仏師の代表的流派宅磨派の始祖といわれる宅磨為遠たくまのためとおの息子。安元元年(一一七五)出家、のちに法橋から法眼になっている。『神護寺略記』には法印の記載もある。建久二年(一一九一)一二月二八日には十二天屛風じゅうにてんびょうぶ東寺に納めていて、現存している唯一の作品となっているとみられるが、その抑揚に富む描線は宋画そうがの手法を採り入れたものとされる。元久二年(一二〇五)には、九条兼実の命により、法然瘧病おこりやまいの御祈請のために善導大師の像を描いている。


【資料】東京大学史料編纂所編『大日本史料』四—三・建久二年一二月二八日条(『東寺長者補任』、『仁和寺御伝』)、『神護寺略記』(仏全一一九)、『四十八巻伝』一七(聖典六)


【参考】蓮実重康「詫磨勝賀論」(『美術史』三六、一九六〇)


【執筆者:野村恒道】