「思惟」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:26時点における最新版
しゆい/思惟
考えること、静処において対象を思量すること。また、現観を修習する方便の意。『瑜伽論』三七の「思惟とは、謂わく、遠離に居て楽いて法を思惟し、其の義を推度し、解了決定す」(正蔵三〇・四九七下)や、『長阿含経』二の「是の時阿難、仏の意旨を承けて即ち坐より起ち仏を礼して去る。仏を去ること遠からざるに、一樹下に在って静意思惟す」(正蔵一・一五中)は前者の意味の例。『無量寿経』上の「五劫を具足して荘厳仏国清浄の行を思惟し摂取す(五劫思惟)」(浄全一・六)も同様の意味である。ただし〈無量寿経〉梵本・チベット訳の対応箇所には「思惟」に相当する語がないため、原語は不明。また、『大乗阿毘達磨雑集論』九の「思惟とは、謂く、正しく現観を修習する方便」(正蔵三一・七三五下)は後者の例である。また、『観経』の韋提希の言葉にある「願わくは世尊、我れに思惟を教えたまえ、我れに正受を教えたまえ」(聖典一・二九一/浄全一・三九)の思惟について、善導は「〈思惟〉と言うは、すなわちこれ観の前方便、かの国の依正二報、総別の相を思想す」(『観経疏』玄義分、聖典二・一六八/浄全二・四下)と釈し、定善中の思惟とする。この他、八正道の中の正思惟は、真実の道理を考える思惟であり、道理に背いて邪に考える邪思惟の逆である。
【執筆者:齊藤舜健】