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「浄念寺」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:25時点における最新版

じょうねんじ/浄念寺

東京都台東区蔵前。化用山常照院。東京教区№二八一。永禄年間(一五五九—一五七〇)、浄念露休が三河国に一宇を建立、後、慶長元年(一五九六)神田駿河台に地を定めて一寺を創建、これが浄念寺開山である。一〇年後の同一一年には、浅草蔵前に千数百坪の寺域を定め、伽藍を建立した。三〇石の御朱印をうける。創建当時の堂宇は明暦、安政等の大火により焼失、数次の造営が行われた。旧来からあった忽信、露休、光成、月松、源信、称専等の子院も百数十年の間に逐次併合された。


【資料】『蓮門精舎旧詞』二〇(続浄一八)


【執筆者:石田典正】


新潟県村上市寺町快楽称名院。新潟教区№六七。明応(一四九二—一五〇一)の初め、浄念がこの地に草庵を結んだのが開基。一一代秀誉万立の代に、上杉景勝の家来春日右ヱ門が檀越となり、寺を再興し万立が開山となった。江戸時代には村上歴代藩主の菩提寺であり、また触頭ふれがしらであった。本寺は以前泰叟寺という寺名だったが浄念寺へと変遷。文政一一年(一八二八)成立の『諸檀林並拾七箇国触頭寺院名帳』には泰叟寺として名を連ねている。芭蕉が元禄二年(一六八九)奥の細道の道中村上に二泊して参詣している。日本一の規模を誇る土蔵造りの本堂は文化一五年(一八一八)建立。新井白石と共に六代・七代将軍に仕え、幕政をつかさどった藩主間部詮房まなべあきふさの御霊廟がある。


【参考】『新潟県寺院名鑑』(新潟県寺院名鑑刊行会、一九八三)、『新潟県指定文化財浄念寺本堂昭和大修復工事落慶記念誌』(浄土宗快楽山浄念寺、一九八六)、『諸檀林並拾七箇国触頭寺院連名帳』(一八二八)


【執筆者:中山祐昌】