「光然」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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【資料】『知恩院史』(知恩院、一九三七)、『知恩院採要記』(仏全一一七)、『総系譜』『浄源脈譜』(共に浄全一九) | 【資料】『知恩院史』(知恩院、一九三七)、『知恩院採要記』(仏全一一七)、『総系譜』『浄源脈譜』(共に浄全一九) | ||
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【執筆者:工藤量導】 | 【執筆者:工藤量導】 |
2025年7月11日 (金) 05:53時点における最新版
こうねん/光然
—天文二四年(一五五五)七月二〇日。浩蓮社徳誉。字は総欣。知恩院二七世。万里小路秀房の舎弟、贈皇太子宮栄子の兄として生まれる。知恩院二四世訓公に師事して大樹寺で修学し、伊勢国桑名の光徳寺および山城国山崎の大念寺を開山する。その後、勅請によって知恩院に入山し、松平家との関係を強めた。享禄三年(一五三〇)御影堂などを再興し、後奈良天皇から宸翰「知恩教院」「大谷寺」の勅額を奉掲し、天文八年(一五三九)には青蓮院の尊鎮法親王から「光照大士」の諡名を下賜された。
【資料】『知恩院史』(知恩院、一九三七)、『知恩院採要記』(仏全一一七)、『総系譜』『浄源脈譜』(共に浄全一九)
【執筆者:工藤量導】