「芳井教岸」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:35時点における最新版
よしいきょうがん/芳井教岸
明治三年(一八七〇)三月二一日—昭和二一年(一九四六)三月一七日。光蓮社道誉闡阿自在。金戒光明寺六五世。旧彦根藩士の宮川善兵衛の四男として生まれ、明治一四年(一八八一)滋賀県蒲生郡福生寺住職籏忍教の弟子となって出家得度。師籍を次ぎ籏姓を名乗るが、金沢浄安寺住職を経て、京都大蓮寺住職となるとき、芳井家に入籍した。その間、大本山金戒光明寺執事長、同顧問を歴任した。任期中は、昭和九年(一九三四)に全焼した同本山大殿の復興に尽力し、第二次世界大戦中の同一九年四月一五日に落成。翌二〇年には、同本山法主望月信亨の知恩院上任をうけ、同年三月二八日、後任に選ばれた。同本山全焼時、息子に「真筆一枚起請文が焼失していたら帰ってこない」と言葉を残し猛毒を持って出勤したエピソードがある。幸い真筆一枚起請文は、同本山の宝物として現存している。絵本『京の走り坊さん』(文・東義久、絵・無以虚風、クレオ、一九九五)のモデルとなった、走り坊さん籏玄教は芳井教岸の子。
【執筆者:芳井教哉】