「無漏・有漏」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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むろ・うろ/無漏・有漏
無漏とは単に煩悩を増大させないものと、煩悩や業を滅ぼすように働きかけるもの。有漏とは煩悩の対象となり、または他の煩悩に働きかけて、煩悩を増大させるもの。ⓈanāsravaⓈsāsravaⓅanāsavaⓅsāsavaⓉzag pa med pa, zag medⓉzag pa dang bcas pa, zag bcas。「漏」は煩悩の異名。『大毘婆沙論』四七([1]では「迷いの境涯に留めるもの」「六処の門から流れ出るもの」「輪廻に縛りつけるもの」などの意味が与えられている。有部アビダルマでは、三つの無為法(虚空・択滅=涅槃・非択滅)と道諦(無漏の智慧等)とが無漏であり、それ以外のすべてが有漏である。仏陀の身体が有漏であるか無漏であるかなどについては学派間で異論があった。浄土についても、唯識学派では仏陀にとっては無漏、凡夫にとっては有漏とされるなど、学派間で異論がある。浄土宗では善導が「自然は即ち是れ弥陀国なり。無漏・無生にして還って即ち真なり」(『法事讃』下、浄全四・一八下)、「かの界は位、これ無漏無生の界なり」(『観経疏』定善義、聖典二・二五五/浄全二・四一上)、「云何ぞ一生の修福、念仏をもって、すなわちかの無漏無生の国に入って、永く不退の位を証悟することを得んや」(『観経疏』散善義、聖典二・二九五~六/浄全二・五九上、『選択集』聖典三・一四六~七/浄全七・四一)と述べ、法然もそれを継承して極楽浄土を無漏の境界であるとする。これは極楽浄土の環境が、そこにいる衆生の煩悩を増大させず、煩悩を断じるように働くことを示している。
【資料】『大毘婆沙論』四四
【参考】榎本文雄「初期仏典におけるāsrava(漏)」(『南都仏教』五〇、一九八三)
【参照項目】➡有相浄土
【執筆者:本庄良文】