「樋口便孝」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ひぐちべんこう/樋口便孝
嘉永三年(一八五〇)—大正一〇年(一九二一)八月八日。善蓮社立誉方阿、字は顕道。明治期の宗政家。東京下谷にて、書家樋口逸斎の二男として生まれ、小石川無量院篤誉便周について七歳で得度。縁山学寮止観室にて研鑽し、明治一四年(一八八一)結城弘経寺の住職となった。宗会議員、教学院議員、第一大教区教務所長を経て、同三八年宗務執綱に就任、同三九年第一教校が芝中学校と改められたときには寝食を忘れて、その創立に心血を注いだ。大正四年(一九一五)通元院兼務、同一〇年七二歳にて示寂。
【執筆者:清水敏孝】