「高畠の少将」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:28時点における最新版
たかはたのしょうしょう/高畠の少将
一二~三世紀頃、生没年不明。法然の帰依者の一人。『醍醐本』「三昧発得記」は、建仁二年(一二〇二)二月二八日の昼頃、法然が持仏堂において高畠の少将と対面し、その間いつものように念仏を修していると、障子から透き通って丈六の阿弥陀仏の面像が現れ、たちまちに消えたことを記す。『法然上人秘伝』下では高畠の少将を七条大納言憲(能)方の子である光方かとする。七条修理大夫藤原信隆の子とすれば、太秦内府と呼ばれた信清の可能性も考えられる。法然が『没後遺誡文』(『漢語灯録』一〇)で感西に譲渡するとした高畠の地に住む人物とも考えられる。高畠の地は天台座主明雲の白河高畑の御坊があった所とすれば、現在の京都市東山区高畑町(三条通白川筋西入三筋目南入)である。
【資料】『尊卑分脈』一(『新訂増補国史大系』五八)、『源平盛衰記』五「山門奏状事」(『源平盛衰記』上、有朋堂書店、一九二七)、『京都坊目誌』「下京第八学区之部」(『新修京都叢書』二〇、臨川書店、一九七〇)
【参考】中野正明「『没後遺誡文』について」(『増補改訂法然遺文の基礎的研究』法蔵館、二〇一〇)
【執筆者:山本博子】