「法琳」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:32時点における最新版
ほうりん/法琳
一
—南斉・建武二年(四九五)。俗姓は楽氏、晋原郡の臨邛(現・四川省成都市)の出身。『高僧伝』や戒珠の『浄土往生伝』によると、はじめ蜀の地(現・四川省)において『十誦律』を研鑽していたが、よき師を得ることができず、後に長安に出て諸部の律蔵を学び、ふたたび蜀に帰り霊建寺に入る。その後、浄土教に帰依するようになり、朝夕に『無量寿経』や『観経』(または『観音経』)を読誦した。南斉の建武二年に病を患い、西方を念じて礼拝懺悔を行い、臨終に浄土の諸賢聖衆を見て合掌して示寂した。蜀の地において浄土教を宣揚した数少ない僧の一人として注目される。
【資料】『高僧伝』一一(正蔵五〇)、『浄土往生伝』上(続浄一六)
【執筆者:齊藤隆信】
二
北斉・武平三年(五七二)—唐・貞観一四年(六四〇)。俗姓は陳氏、潁川(現・河南省許昌市)の出身。幼くして出家し、仏教のみならず、儒教や道教に明るく、とくに仏教と道教との優劣論争における護法僧として知られる。武徳四年(六二一)、太史令の傅奕が廃仏にかかわる一一条を上奏したため、『破邪論』一巻や『弁正論』八巻を著して道教と仏教の邪正を明らかにした。李姓の唐室は道教の祖である老子(李耳)をもって先祖とするため、貞観一一年(六三七)にいわゆる道先仏後(道教を優先し、仏教はその下位におく)の詔を発布した。これに対し法琳は太宗李世民の面前でその非なることを進言した。法琳に同調した大総持寺の智実も上表文を提出しているが、杖刑に処せられ還俗させられている。同一三年九月、道士の秦世英が法琳の『弁正論』は不敬にあたると進言したため、太宗の逆鱗にふれ、益部(現・四川省)に配され、翌一四年に百牢関の菩提寺において病没した。世寿六九歳。
【資料】『続高僧伝』二四(正蔵五〇)
【執筆者:齊藤隆信】