「金戒光明寺」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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【参考】『黒谷誌要』(浄全二〇)、水野恭一郎・中井真孝編『京都浄土宗寺院文書』(同朋舎出版、一九八〇)【図版】巻末付録 | 【参考】『黒谷誌要』(浄全二〇)、水野恭一郎・中井真孝編『京都浄土宗寺院文書』(同朋舎出版、一九八〇)【図版】巻末付録 |
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こんかいこうみょうじ/金戒光明寺
京都市左京区黒谷町。紫雲山。通称黒谷堂、新黒谷ともいう。浄土宗大本山。本尊は阿弥陀如来。開山は法然。法然上人二十五霊場第二四番。『黒谷誌要』によれば、法然の『没後遺誡文』にある白川本坊の旧址と伝えられ、白川禅房と呼ばれていた。法然はこの白川本坊の多くを、法兄弟であり門弟の筆頭格であった法蓮房信空に付属している。その後は信空の弟子である嵯峨門徒の派祖正信房湛空がつぐ。四世恵尋から円智・任空・範空・如法と天台僧が歴住し、特に如法が後光厳天皇の授戒の師となったことから、寺号に「金戒」の二字を冠し金戒光明寺と号するようになった。九世定玄から一六世秀馨までの住持は浄華院を兼帯。一〇世等熈は浄華院に住したが、後小松天皇から「浄土真宗最初門」の額を下賜され、称光天皇・将軍足利義量らの善知識となった。また大内政弘・伊勢貞国らの資助を得て境内は拡張され堂舎を建立して道場とするなど、徐々に公武からの尊信を受けた。一六世秀馨の代には将軍足利義稙より浄華院復興の命が出されたため、看坊留守居役として理聖があてられ再興がはかられた。天文一〇年(一五四一)浄華院は金戒光明寺を末寺に位置付けようとし、両寺の間に軋轢が生じた。天正二年(一五七四)には織田信長からの制状、同一三年には豊臣秀吉より寺領一三〇石の朱印状を得て寺運を開く。金戒光明寺と浄華院の本末争いは、秀吉の裁定により浄華院の理が認められたが、浄華院道残が金戒光明寺二二世になると同寺に興隆を導き浄華院より独立の素地を築くこととなり、文禄二年(一五九三)淀君により御影堂が再興、豊臣秀頼によって阿弥陀堂が造立されるなど無本寺としての格を備える。同一七年諸堂宇は火災により焼失するが豊臣秀頼によって再建される。その後、徳川家康は寺領一三〇石を安堵し、二七世了的が増上寺存応の弟子であることもあって、秀忠室崇源院殿ならびに徳川忠長峯巌院殿の霊屋も興る。洛東に約四万坪の広大な敷地を有し、御影堂・阿弥陀堂・大方丈・山門・三重塔・経蔵・鐘楼などをはじめ、一八箇寺の塔頭が壮大に軒を並べる。古文書は中世のものは数度の火災で多くが焼失しているが、金戒光明寺再興勧進帳(永正九年〔一五一二〕七月付)など近世初期の寺史を裏付ける貴重なものが多く伝存。宝物類としては、絹本著色山越阿弥陀図ほか二点が国重要文化財。所蔵する伝法然筆『一枚起請文』、俊秀作法然肖像画「鏡の御影」は有名。
【参考】『黒谷誌要』(浄全二〇)、水野恭一郎・中井真孝編『京都浄土宗寺院文書』(同朋舎出版、一九八〇)【図版】巻末付録
【参照項目】➡法然上人二十五霊場
【執筆者:中野正明】