「浅井法順」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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あさいほうじゅん/浅井法順
明治六年(一八七三)三月—大正八年(一九一九)三月二五日。随蓮社本誉性阿、字は不背。新潟県三島郡塚山村(現・長岡市)に浅井六太郎の六男として出生。幼名は若吉。明治一二年(一八七九)長岡法蔵寺の後藤清順について得度し、法順と改名。浄土宗学第四教校・浄土宗学本校正科を経て、同三三年専門院唯識部を卒業。宗史に造詣が深く、今岡達音と共に宗史研究の双璧と呼ばれた。同三五年より『黒谷誌要』を編纂した後、同四〇年より『華頂誌要』の編集に従事。大正二年(一九一三)知恩院で山崎弁栄に対面した縁で光明主義に傾倒し、翌三年に自坊の長岡法蔵寺に弁栄を招いた。同七年四月長岡如来光明会を設立。翌八年三月に知恩院で行われた別時会で流感に罹り、肺炎を併発し示寂。世寿四七歳。
【参考】『浄土宗典籍研究』(山喜房仏書林、一九七五)、大橋俊雄『浄土宗人名事典』(斎々坊、二〇〇一)
【執筆者:石川達也】