「定心・散心」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:25時点における最新版
じょうしん・さんじん/定心・散心
定まった心と散乱する心。定心とは、ある対象に集中した心の状態のこと。一方、散心はその対であり、対象に心が向けられず心が散乱した状態のこと。定心は善心、散心は染心と定義されることが多い。論書などでは定心の対は不定心、散心の対は略心とされることもある。法然は、念仏往生には定心と散心による可否はないと述べる。たとえば『明遍僧都との問答』においては、心が「散れども名を称すれば仏願力に乗じて往生すべしとこそ心得てそうらえ」(聖典四・四七六/昭法全六九三)と述べ、さらに「欲界散地に生まれたる者はみな散心あり。…散心を捨てて往生せんといわん事、その理しかるべからず。散心ながら念仏申す者が往生すればこそめでたき本願にてはあれ」(同)と説く。また良忠は口称念仏の機を定心と散心を用いて定機と散機の二種に分類し、定機を「口称の力によって定心発得してまさに仏を見る」(浄全二・一五五下/正蔵五七・五三六上)者とし、散機を「散心称名して臨終の時に至ってまさにすなわち仏を見て浄土に往生す」(同)る者と述べる。念仏往生においては、定心や散心といった心の状態よりも、称名の実践の有無に重きが置かれる。
【資料】『婆沙論』、『観経疏』
【執筆者:石田一裕】