「建中寺」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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【資料】『総系譜』中(浄全一九)、『尾張志』二 | 【資料】『総系譜』中(浄全一九)、『尾張志』二 | ||
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【執筆者:宇高良哲】 | 【執筆者:宇高良哲】 |
2025年7月11日 (金) 06:35時点における最新版
けんちゅうじ/建中寺
名古屋市東区筒井。徳興山崇仁院。尾張教区№一五。慶安三年(一六五〇)成誉廓吞の開山。開基は尾張藩主徳川光友。慶安三年尾張藩主徳川義直の遺言により追善のため一寺を創建した。このときに檀林結城弘経寺住職廓吞が招かれて開山となる。その由緒から翌年上洛参内して常紫衣地無本寺の綸旨を、また藩主徳川光友から五〇〇石の供養料をもらっている。中興は到誉弁及。天明五年(一七八五)諸堂舎が焼失したが再建。住持の継目相続は尾張藩主の任命による。そして江戸城の将軍へのお礼の登城を慣例とした。誓安院、宗心院などの塔頭がある。藩主歴代の御霊屋がある。
【資料】『総系譜』中(浄全一九)、『尾張志』二
【参考】村上真瑞「建中寺創建年次―新資料の紹介―」(『佛教論叢』六八)
【執筆者:宇高良哲】