「染汚」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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− | 染め汚すこと。ⓈkliṣṭaⓈsaṃkliṣṭa。[[禅宗]]では「ぜんな」とも読み、また染、雑染ともいう。『[[俱舎論]]』七では、「染とは謂く不善と<ruby>有覆[[無記]]<rt>うふくむき</rt></ruby>」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V29.0038c.html 正蔵二九・三八下])として、[[染汚]]は苦の結果を生む作用(不善)と、苦を生むほどではないが[[悟り]]を起こすのを覆い障げる作用(有覆[[無記]])としている。[[玄奘]]訳『[[摂大乗論]]釈』三や『[[成唯識論]]』四では、[[煩悩]]が心を染め汚すことを説いている。[[良遍]]『法相二巻抄』では、[[煩悩]]と随[[煩悩]]の本性は染め汚すことであると説く。[[善導]]『[[観経疏]]』[[散善]]義の[[二河白道]]の譬えの中では、「貪愛は水の如く」(聖典二・二九八/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0060 浄全二・六〇上])として「水波常に道を湿すとは、すなわち愛心常に起って、能く善心を[[染汚]] | + | 染め汚すこと。ⓈkliṣṭaⓈsaṃkliṣṭa。[[禅宗]]では「ぜんな」とも読み、また染、雑染ともいう。『[[俱舎論]]』七では、「染とは謂く不善と<ruby>有覆[[無記]]<rt>うふくむき</rt></ruby>」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V29.0038c.html 正蔵二九・三八下])として、[[染汚]]は苦の結果を生む作用(不善)と、苦を生むほどではないが[[悟り]]を起こすのを覆い障げる作用(有覆[[無記]])としている。[[玄奘]]訳『[[摂大乗論]]釈』三や『[[成唯識論]]』四では、[[煩悩]]が心を染め汚すことを説いている。[[良遍]]『法相二巻抄』では、[[煩悩]]と随[[煩悩]]の本性は染め汚すことであると説く。[[善導]]『[[観経疏]]』[[散善]]義の[[二河白道]]の譬えの中では、「貪愛は水の如く」(聖典二・二九八/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0060 浄全二・六〇上])として「水波常に道を湿すとは、すなわち愛心常に起って、能く善心を[[染汚]]するに喩う」(同二九八~九/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0060 同六〇下])と述べられ、貪愛心が善心を染め汚すことを説いている。『[[選択]][[決疑鈔見聞]]』四では、貪瞋[[煩悩]]を染法と釈する『[[決疑鈔]]』四を受け、[[染汚]]法に[[根本無明]]、生、住、異、滅の五種をあげている。 |
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【参考】横山紘一『唯識とは何か』(春秋社、一九八六)、上田義文『摂大乗論講読』(春秋社、二〇〇四) | 【参考】横山紘一『唯識とは何か』(春秋社、一九八六)、上田義文『摂大乗論講読』(春秋社、二〇〇四) | ||
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【執筆者:竹内真道】 | 【執筆者:竹内真道】 |
2018年9月17日 (月) 10:08時点における最新版
ぜんま/染汚
染め汚すこと。ⓈkliṣṭaⓈsaṃkliṣṭa。禅宗では「ぜんな」とも読み、また染、雑染ともいう。『俱舎論』七では、「染とは謂く不善と有覆無記」(正蔵二九・三八下)として、染汚は苦の結果を生む作用(不善)と、苦を生むほどではないが悟りを起こすのを覆い障げる作用(有覆無記)としている。玄奘訳『摂大乗論釈』三や『成唯識論』四では、煩悩が心を染め汚すことを説いている。良遍『法相二巻抄』では、煩悩と随煩悩の本性は染め汚すことであると説く。善導『観経疏』散善義の二河白道の譬えの中では、「貪愛は水の如く」(聖典二・二九八/浄全二・六〇上)として「水波常に道を湿すとは、すなわち愛心常に起って、能く善心を染汚するに喩う」(同二九八~九/同六〇下)と述べられ、貪愛心が善心を染め汚すことを説いている。『選択決疑鈔見聞』四では、貪瞋煩悩を染法と釈する『決疑鈔』四を受け、染汚法に根本無明、生、住、異、滅の五種をあげている。
【参考】横山紘一『唯識とは何か』(春秋社、一九八六)、上田義文『摂大乗論講読』(春秋社、二〇〇四)
【執筆者:竹内真道】