「誹謗正法」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:31時点における最新版
ひほうしょうぼう/誹謗正法
正法すなわち仏法を誹謗すること。「ひぼうしょうぼう」ともいう。略して謗法、または破法、断法ともいう。主に大乗経典に対する誹謗を意味し、『阿含経』などにはほとんどこれを見ることができない。『無量寿経』第十八願文の末に「もし生ぜずんば、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とを除く」(聖典一・二二七/浄全一・七)とあり、また同経下の十八願成就文に「かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て、不退転に住す。ただ五逆と正法を誹謗するとを除く」(聖典一・二四九/浄全一・一九)と示されている。これらの文が『観経』下品下生に五逆十悪の者も往生を得ると説く文と相違する点について、中国では逆傍除取の問題として論じられた。曇鸞は五逆と謗法の二重の罪を犯した者は除かれ、『観経』の五逆罪は単罪であるから摂取されると主張した。一方、善導は『観経疏』において未造已造の立場よりこれを見、『無量寿経』の文は衆生が五逆と誹謗の罪を造ることを恐れて、抑止的に示されたのであり、『観経』の文はすでに造った罪であるから、大悲を以て臨終の十念によって摂取されると解釈した。つまり曇鸞は罪業の単複により、善導は未造已造の立場によりこれを解釈しているのである。このような善導の釈の中には摂論学派による念仏別時意の説等も意識されていたと考えられる。善導の弟子懐感は『群疑論』の中で当時中国で論じられていたこの問題を一五家の説を示して詳しく紹介している。法然もこの善導の釈義にもとづき、誹謗正法の者も念仏によって往生を得るとしている。
【執筆者:金子寛哉】