「二修の得失」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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にしゅのとくしつ/二修の得失
浄土に往生するために正行を修めることと雑行を修めることにおいて、その行者のうえに得と失とがあること。正雑二行における価値批判である。浄土宗では専修と正行、雑修と雑行を同一のものと捉えることから、二行の得失、二行二修の得失ともいう。法然は『選択集』二において善導の『観経疏』散善義の「もし前の正助二行を修すれば、心常に親近して、憶念断えざれば名づけて無間とす。もし後の雑行を行ずれば、すなわち心常に間断す。回向して生ずることを得べしといえども、すべて疎雑の行と名づく」(聖典二・二九四~五/浄全二・五八下)をうけて、正行(正定業と助業)と雑行において相対する価値批判を行っている。それを五番相対という。①親疎対。正行はこれを修める者に阿弥陀仏は見たまい、聞きたまい、憶念したまうので親しい関係を結ぶことになるが、雑行は往生に直接関わりのない行法なので阿弥陀仏との関係は希薄である。②近遠対。正行を修める者が阿弥陀仏を見たてまつらんとおもえば、仏はそれに応じて目前に出現されるが、雑行はそのかぎりではない。③無間有間対。正行を修める者は常に阿弥陀仏に心をよせて断絶することがないが、雑行はおもいが断絶する。④不回向回向対。正行はそれ自体が往生の行なので、ことさら回向する必要はないが、雑行はそもそも往生行ではないので、回向しないかぎり往生することはできない。⑤純雑対。正行は阿弥陀仏の浄土に往生するための純粋純正な行法であるが、雑行はさまざまな果報を目的としてなされる行法なので純粋ではない。そして最後に「然れば西方の行者すべからく雑行を捨てて正行を修すべし」(聖典三・一一〇)として、正行に徹するべきことを強調する。また、正雑二行の得失はこの五番相対だけではなく、法然はその上で善導の『往生礼讃』に説かれる得失(浄全四・三五七上)も引用している。これは専修の行者は一〇人は一〇人ながら、一〇〇人は一〇〇人ながら往生する理由に四つあるとし(四得)、雑行では往生する可能性がほとんどない理由として一三をあげている(十三失)。法然はそれらを引用した後に「いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者よくこれを思量せよ」(聖典三・一一三)と結んでいる。
【執筆者:齊藤隆信】