諸行非本願
提供: 新纂浄土宗大辞典
しょぎょうひほんがん/諸行非本願
念仏以外の諸行が阿弥陀仏の本願に誓われた、極楽浄土に往生するための行ではないという意味。諸行本願に対する用語。法然は、『選択集』三を「弥陀如来余行を以て往生の本願とせず、ただ念仏を以て往生の本願と為したまえるの文」(聖典三・一一三/昭法全三一七)と論じ、本願の念仏(本願行)を選び取り、非本願の諸行(非本願行)は廃捨しなくてはならないことを説いている。また『選択集』七において「念仏はこれ本願の行、諸行はこれ本願に非ず」(同一三八/同三二八)と述べるように法然の教説は諸行非本願で一貫しているが、法然門下の長西が第二十願を典拠として、諸行も生因の本願に誓われた行であるとして諸行本願義を立てた。良忠は諸行非本願の立場から、諸行本願義を激しく批判した。すなわち、『東宗要』二において、「諸行非本願の義を成ぜば、すなわち十の由あり。一に諸師諸行本願の名を立てざるが故に。二に黒谷、蓮華谷、前後の安居院、毘沙門堂、妙香院等の先達諸行本願の義を存ぜざるが故に。三に十八願に諸行を選捨しおわって、還りて取るべからざるが故に。四に二十の願に諸行を選取して、念仏を選捨せば、浄土経の意に違するが故に。五に若不生者を改めて、不果遂者と云うが故に。六に念仏・諸行同じく本願の行ならば、全非比挍と云うべからざるが故に。七に念仏独り当知本願最為強と判ずるが故に。八に廻生雑善恐力弱の釈、本願の行に属し難きが故に。九に十九・二十並びに諸行を願ぜば、繁重の咎を招くべきが故に。十に諸行本願を立つる人、あるいは十九に就き、あるいは二〇によって定属なきが故に」(浄全一一・五〇下)と、一〇の理由を挙げて諸行非本願を説明している。
【参照項目】➡諸行本願義一
【執筆者:大嶋憲彰】