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提供: 新纂浄土宗大辞典

ごう/業

心身による行為。ⓈkarmanⓅkammaⓉlas。羯磨かつまなどと音写される。ただし羯磨と音写される場合、多くは受戒のときの作法を意味する。業には思業・思已業、表業・無表業、身・口・意三業など種々の種類がある。業とは、思業・思已業に大別されるように、意志の発動と、その意志によってなされる行為とのことであり、身体(身)・言語(口)・心理(意)の三種によって形成される。業はただの行為ではなく、それが善業あるいは悪業であれば、必ず楽あるいは苦の結果が伴う。一般に「自業自得」といえば、特に悪い行いによってその報いを受けることをさすが、業の理論においては、善い業もまた報いを残すとされる。業の報いについては、俗に「善因善果・悪因悪果」というが、これは「善因楽果・悪因苦果」というのが正しく、善や悪の業によって受ける報いは楽や苦という感受であり、報いそのものは善でも悪でもない。ただし、強力な善業や悪業は、その余力を身体に残し、その後の行為を規制する。例えば、受戒などがこれにあたり、このような業を無表業という。業は、インド思想に広くみられるが、仏教の業の理論の特徴は意業に重きを置く点にある。これは実際の行動よりも、その行動を起こすに至った動機に重きを置くということである。そして、そのような心を制御することが、仏道実践の目的である。また業は、しばしば現世の境遇を過去世の行いによって説明するために用いられるが、これは業の理論の一面にすぎない。業の理論において最も重要なことは、『スッタニパータ』一三六偈に説かれるように、人間の価値がその行いによって定められることにある。生まれではなく、行いによって人の価値は決まるものであり、その行いが自らの意志によって善いものにできる、ということが仏教における業の理論の重要な点である。


【資料】『俱舎論』業品


【参考】木村泰賢『小乗仏教思想論』(『木村泰賢全集』五、大法輪閣、一九六八)


【参照項目】➡三業正定業・助業因果応報


【執筆者:石田一裕】