きょうまんねんぶつ/憍慢念仏
自らおごり高ぶり他をさげすむ憍慢の心を起こしたまま称える念仏。憍慢念仏は念仏行者が具えるべき凡夫性の自覚という信心と相反するものであり、往生し難いとされる。法然は「されば、我ほどの念仏者、よも有らじと思う、僻事なり。この思いは大驕慢にてあれば、すなわち三心も欠くるなり」(『四十八巻伝』二一、聖典六・二九六)と言い、憍慢の心を起こせば三心具足の念仏ではないとする。また聖光は『西宗要』六で「此の憍慢の念仏は往生すべからず。これ虚仮の念仏なるが故なり」(浄全一〇・二四一上)と言い、憍慢念仏による往生をはっきりと否定している。
【参照項目】➡憍慢
【執筆者:安孫子稔章】