念仏衆生摂取不捨
提供: 新纂浄土宗大辞典
ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ/念仏衆生摂取不捨
阿弥陀仏の選択本願である称名念仏を修する者は、阿弥陀仏の光明によって摂取されることをいう。『観経』の第九真身観には「光明、徧く十方世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」(聖典一・三〇〇/浄全一・四四)と説かれている。善導は『観経疏』定善義において仏光が普く照らすのに何故に念仏衆生のみを摂取するのかについて、親縁・近縁・増上縁の三縁をあげて説明し、念仏行が諸行に比して勝れていることを明らかにしている。法然は『逆修説法』一七日において念仏衆生摂取不捨が真仏の摂取であるとし、三七日において仏の光明に常光と神通光があるが摂取不捨の光明は神通光であるとしている。また『選択集』七では、仏の光明が念仏者のみを照らして余行の者を照らさない理由について「一つには親縁等の三義、文のごとし。二つには本願の義、謂く余行は本願に非ず。故にこれを照摂せず。念仏はこれ本願なり。故にこれを照摂す」(聖典三・一三八/昭法全三二七)としている。
【執筆者:曽根宣雄】