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二行二修の同異

提供: 新纂浄土宗大辞典

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にぎょうにしゅのどうい/二行二修の同異

正行・雑行」の二行の対比と、「専修・雑修」の二修の対比が同一のものであるか否かの論議。善導観経疏散善義によれば、往生を説く経典に基づく実践行を五種の「正行」とし、それ以外の行を全てまとめて「雑行」と定義する。『往生礼讃』には専雑に異なりありとし、意を専らにして修する者は十即十生、必ず往生を遂げ、雑を修して至心ならざる者は千中無一往生を遂げる者はいない、と専修雑修を定義している。以上を踏まえた法然は「私に云く、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生専修正行を捨てて、堅く千中無一雑修雑行を執せんや」(『選択集』二、聖典三・一一三/浄全七・一五)と述べ、専修正行雑修雑行を同一のものとして、称名念仏一行のみを修して極楽往生を遂げることを勧めている。良忠はこれについて一問答を設け、「凡そ正雑即ち専雑と云う義は、中古の先達皆一同なり」(『東宗要』五、浄全一一・九九)と結論し、浄土宗の立場は二行二修一体説であると主張している。なお、証空は「正・雑」は修すべき行の観点、「専・雑」は行ずる者の観点と表現上の差異であることを述べている。しかし以降の門流で複雑に見解が分かれ、道光は『選択集大綱抄』上(浄全八・二〇下~二上)でそれを五つの説に分類整理している。


【参考】石井教道『選択集全講』(平楽寺書店、一九九五)


【参照項目】➡二修の得失


【執筆者:渋谷康悦】