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秦義応

提供: 新纂浄土宗大辞典

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はたぎおう/秦義応

天保五年(一八三四)—明治二三年(一八九〇)五月一七日。感蓮社交誉道阿真如海。あざなは蘇山。増上寺七四世。明治初期の学僧。尾張藩士伊藤右門の二男として生まれる。一〇歳で得度(吞応と改名)。佐藤牧山に師事した。一五歳で増上寺冠誉より宗戒両脈相承。その後、宗学を研鑽。慧澄に師事し天台学を修め、義嶺・龍謙に師事し性相学を修め、義応と改名。明治維新時増上寺勧学講院を設立し、宗門子弟教育を開始した。明治三年(一八七〇)敦賀西福寺住職、同五年大教院講究課長、同九年には芝天徳寺に転任した。同二一年増上寺七四世。世寿五七歳。著書『浄土問題略弁』『蘇山吟稿』『藕耕集』ほか。


【執筆者:硯川眞旬】