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真如堂縁起

提供: 新纂浄土宗大辞典

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しんにょどうえんぎ/真如堂縁起

三巻。大永四年(一五二四)八月一五日の奥書を持つ。京都市左京区にある真正極楽寺、通称真如堂の由緒沿革を記した書。真如堂二一世住持昭淳の意向によって、画を掃部助かもんのすけ久国が描き、詞書草稿を法務前大僧正公助が著している。また青蓮院尊鎮法親王も大きく関わっており、中巻の一部や奥書の全てに筆を執っていることから、いかに精力を傾けていたかがうかがえる。これら天台系の人脈によって企図・編集された本書は、上巻は全て後柏原天皇の宸筆、中巻は伏見宮邦高親王および尊鎮、下巻は三条西実隆と公助の筆となっている。特に後柏原天皇の一巻を通しての宸筆は他に例を見ない。宸筆とされる写本は、この時代の作品としては非常に良好な状態を保っており、国重要文化財に指定されている。内容は上巻では寺号や通称の由来について述べられる。真正極楽寺寺号は「これぞまことの極楽である」の意とし、山号の鈴声山は岩戸神話神楽かぐらの合奏の鈴の音が聞こえてきたことに基づく。通称の真如堂は、阿弥陀仏の慈光が、どのようなところにも及ぶ普遍性をもつ万法の真如と同じであることに基づくとする。また、法蔵比丘びく正覚を得て阿弥陀仏となったこととともに、真如堂本尊阿弥陀如来の由来が述べられる。それによれば、入唐した慈覚大師円仁が、五台山生身文殊菩薩に遭い、引声の『阿弥陀経』を受得したが、帰朝の途で忘却してしまい、船上で焼香念誦したところ香煙の中に阿弥陀仏が化現し、それを袈裟の中に包み納めた。円仁は、国に戻って三尺三寸の阿弥陀仏像を自刻し、船上で受得した小像を胎内に納め、比叡山常行三昧堂に安置した。その後、戒算がこの像から女人済度夢告を受け、神楽岡の東三条院(円融天皇の女御、一条天皇の母)の離宮にうつしたとする。中巻では、真如堂建立の由来、戒算の往生貞慶による真如堂の補修が述べられるほか、法然と当山の関係についてもふれる。法然真如堂本尊より、「唯たのめ よろずの罪は深くとも 我本願のあらん限りは」(仏全一一七・三二六下)の歌を授けられ、熊谷次郎直実にこの歌を書状で送ったとすることや、聖覚法然の三回忌追善法要として七日間の百万遍念仏を行い、毎日正午を期して説法が行われ、僧俗の参詣人が群参したことなどが述べられている。下巻は、応仁の乱以降の真如堂の寺域や本尊流転と、大永元年(一五二一)の再建および落慶法要などについて述べられる。


【所収】仏全一一七


【参考】榊原悟「〈真如堂縁起〉概説」(『続々日本絵巻大成五 清水寺縁起 真如堂縁起』中央公論社、一九九四)


【参照項目】➡真如堂


【執筆者:東海林良昌】