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原意は不死であるが、その指し示すところは幅広い。Ⓢamṛtaの漢訳語。[[アミリタ]]、アムリタと表記。Ⓢamṛtaは「死ぬ」を意味する動詞√mṛの過去分詞Ⓢmṛtaに否定詞のaを冠した語。例えばインド[[神話]]では、不死をもたらす飲み物のことをいう場合がある。[[アミリタ]]([[甘露]])を求めて止まない神々と魔類が[[大海]]を大山で攪拌したところ、[[大海]]から神々の中の医師が現れ、彼が手にする壺の中に収められていたとされる。ここでの[[甘露]]はその出現が創造[[神話]]に分類される壮大なスケールで語られる一方、手にした壺に収まる量であるところに[[甘露]]の希少価値が認められよう。あるいはまた[[バラモン教]]において[[アミリタ]](不死)は理想として目指すべき「最高の福祉」と同等のものと位置付けられ、最高の明知(Ⓢvidyā)によりもたらされるとする(『マヌ法典』一二章)。この語は仏典においても多用され、例えば、[[梵天]][[勧請]]を受け容れた[[釈尊]]が[[説法]]を決意した際の宣言に「我今[[甘露]]の門を開かんと欲す」(『仏本行集経』三三、[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V03.0806c.html 正蔵三・八〇六下])と用いられる。この場合の[[甘露]]は[[釈尊]]が[[成道]]後、「我今辛苦して此の法を証す <ruby>輒爾<rt>たやすく</rt></ruby>即ち応に宣ぶべからず」(同八〇五下)、「[[解脱]]の法は深甚にして難し これを知るが故に<ruby>[[阿蘭若]]<rt>あらんにゃ</rt></ruby>に住せんと欲す」(同八〇六上)と評した[[解脱]]、すなわち[[涅槃]]、[[悟り]]の深遠な境地を指そう。また[[菩薩]]が[[五濁]]悪世に[[正覚]]を[[発願]]するのは、[[貪欲]]・[[瞋恚]]・[[愚痴]]の多悩の[[衆生]]をして「[[生死]]の[[大海]]を度脱し教えて正見の中に安住せしむ。[[涅槃]]に処し、[[甘露]]の水を<ruby>服<rt>の</rt></ruby>ましむ」(『[[悲華経]]』五、[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V03.0199b.html 正蔵三・一九九中])ため、といった用例がある。ここでの[[甘露]]の水は[[煩悩]]を解毒する作用が認められよう。[[善導]]『[[往生礼讃]]』にも「心を洗う[[甘露]]の水 目を悦ばしむ妙華の雲」と[[極楽]]を称讃する偈文があり、[[煩悩]]を洗い流すという[[甘露]]の効能が示唆されている。[[良忠]]はこの水について『[[無量寿経]]』上が[[極楽]]の池について「[[八功徳水]]、[[湛然]]として<ruby>盈満<rt>ようまん</rt></ruby>せり。[[清浄]]香潔にして、味わい[[甘露]]のごとし」(聖典一・二四二/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0016 浄全一・一六])、[[乃至]]「<ruby>調和冷煖<rt>じょうわりょうなん</rt></ruby>にして、[[自然]]に意に随って、<ruby>神<rt>たましい</rt></ruby>を開き体を悦ばしめ、<ruby>心垢<rt>しんく</rt></ruby>を<ruby>蕩除<rt>とうじょ</rt></ruby>す」(聖典一・二四三/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0016 浄全一・一六])と説く一節を対照させて[[解釈]]する(『[[往生礼讃私記]]』[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0413 浄全四・四一三下])。この他、[[甘露]]の用例は『六十華厳』や[[密教]]経典、あるいは『[[無量寿経]]』上では、[[菩薩]]の頭頂に[[甘露]]の水がそそがれて仏になれる証しとなることを表す「[[甘露]][[灌頂]]」など枚挙に暇がない。また仏典ではないが『老子』三二章に「天地相合して、以て[[甘露]]を<ruby>降<rt>くだ</rt></ruby>す」とある。ここでの[[甘露]]は天から降る甘い露で、天下太平の吉兆とされる。一般的には飲食の美味であることをいう。
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原意は不死であるが、その指し示すところは幅広い。Ⓢamṛtaの漢訳語。[[アミリタ]]、アムリタと表記。Ⓢamṛtaは「死ぬ」を意味する動詞√mṛの過去分詞Ⓢmṛtaに否定詞のaを冠した語。例えばインド[[神話]]では、不死をもたらす飲み物のことをいう場合がある。[[アミリタ]]([[甘露]])を求めて止まない神々と魔類が[[大海]]を大山で攪拌したところ、[[大海]]から神々の中の医師が現れ、彼が手にする壺の中に収められていたとされる。ここでの[[甘露]]はその出現が創造[[神話]]に分類される壮大なスケールで語られる一方、手にした壺に収まる量であるところに[[甘露]]の希少価値が認められよう。あるいはまた[[バラモン教]]において[[アミリタ]](不死)は理想として目指すべき「最高の福祉」と同等のものと位置付けられ、最高の明知(Ⓢvidyā)によりもたらされるとする(『マヌ法典』一二章)。この語は仏典においても多用され、例えば、[[梵天]][[勧請]]を受け容れた[[釈尊]]が[[説法]]を決意した際の宣言に「我今[[甘露]]の門を開かんと欲す」(『仏本行集経』三三、[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V03.0806c.html 正蔵三・八〇六下])と用いられる。この場合の[[甘露]]は[[釈尊]]が[[成道]]後、「我今辛苦して此の法を証す <ruby>輒爾<rt>たやすく</rt></ruby>即ち応に宣ぶべからず」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V03.0805c.html 同八〇五下])、「[[解脱]]の法は深甚にして難し これを知るが故に<ruby>[[阿蘭若]]<rt>あらんにゃ</rt></ruby>に住せんと欲す」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V03.0806a.html 同八〇六上])と評した[[解脱]]、すなわち[[涅槃]]、[[悟り]]の深遠な境地を指そう。また[[菩薩]]が[[五濁]]悪世に[[正覚]]を[[発願]]するのは、[[貪欲]]・[[瞋恚]]・[[愚痴]]の多悩の[[衆生]]をして「[[生死]]の[[大海]]を度脱し教えて正見の中に安住せしむ。[[涅槃]]に処し、[[甘露]]の水を<ruby>服<rt>の</rt></ruby>ましむ」(『[[悲華経]]』五、[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V03.0199b.html 正蔵三・一九九中])ため、といった用例がある。ここでの[[甘露]]の水は[[煩悩]]を解毒する作用が認められよう。[[善導]]『[[往生礼讃]]』にも「心を洗う[[甘露]]の水 目を悦ばしむ妙華の雲」と[[極楽]]を称讃する偈文があり、[[煩悩]]を洗い流すという[[甘露]]の効能が示唆されている。[[良忠]]はこの水について『[[無量寿経]]』上が[[極楽]]の池について「[[八功徳水]]、[[湛然]]として<ruby>盈満<rt>ようまん</rt></ruby>せり。[[清浄]]香潔にして、味わい[[甘露]]のごとし」(聖典一・二四二/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0016 浄全一・一六])、[[乃至]]「<ruby>調和冷煖<rt>じょうわりょうなん</rt></ruby>にして、[[自然]]に意に随って、<ruby>神<rt>たましい</rt></ruby>を開き体を悦ばしめ、<ruby>心垢<rt>しんく</rt></ruby>を<ruby>蕩除<rt>とうじょ</rt></ruby>す」(聖典一・二四三/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0016 浄全一・一六])と説く一節を対照させて[[解釈]]する(『[[往生礼讃私記]]』[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0413 浄全四・四一三下])。この他、[[甘露]]の用例は『六十華厳』や[[密教]]経典、あるいは『[[無量寿経]]』上では、[[菩薩]]の頭頂に[[甘露]]の水がそそがれて仏になれる証しとなることを表す「[[甘露]][[灌頂]]」など枚挙に暇がない。また仏典ではないが『老子』三二章に「天地相合して、以て[[甘露]]を<ruby>降<rt>くだ</rt></ruby>す」とある。ここでの[[甘露]]は天から降る甘い露で、天下太平の吉兆とされる。一般的には飲食の美味であることをいう。
 
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【参考】上村勝彦『インド神話』(東京書籍、一九八一)、田辺繁子訳『マヌ法典』(岩波書店、一九五三)、浄土宗総合研究所編『現代語訳浄土三部経』(浄土宗、二〇一一)、小川環樹編『世界の名著4 老子荘子』(中央公論社、一九七八)
 
【参考】上村勝彦『インド神話』(東京書籍、一九八一)、田辺繁子訳『マヌ法典』(岩波書店、一九五三)、浄土宗総合研究所編『現代語訳浄土三部経』(浄土宗、二〇一一)、小川環樹編『世界の名著4 老子荘子』(中央公論社、一九七八)
 
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【執筆者:袖山榮輝】
 
【執筆者:袖山榮輝】

2018年9月17日 (月) 01:17時点における版

かんろ/甘露

原意は不死であるが、その指し示すところは幅広い。Ⓢamṛtaの漢訳語。アミリタ、アムリタと表記。Ⓢamṛtaは「死ぬ」を意味する動詞√mṛの過去分詞Ⓢmṛtaに否定詞のaを冠した語。例えばインド神話では、不死をもたらす飲み物のことをいう場合がある。アミリタ甘露)を求めて止まない神々と魔類が大海を大山で攪拌したところ、大海から神々の中の医師が現れ、彼が手にする壺の中に収められていたとされる。ここでの甘露はその出現が創造神話に分類される壮大なスケールで語られる一方、手にした壺に収まる量であるところに甘露の希少価値が認められよう。あるいはまたバラモン教においてアミリタ(不死)は理想として目指すべき「最高の福祉」と同等のものと位置付けられ、最高の明知(Ⓢvidyā)によりもたらされるとする(『マヌ法典』一二章)。この語は仏典においても多用され、例えば、梵天勧請を受け容れた釈尊説法を決意した際の宣言に「我今甘露の門を開かんと欲す」(『仏本行集経』三三、正蔵三・八〇六下)と用いられる。この場合の甘露釈尊成道後、「我今辛苦して此の法を証す 輒爾たやすく即ち応に宣ぶべからず」(同八〇五下)、「解脱の法は深甚にして難し これを知るが故に阿蘭若あらんにゃに住せんと欲す」(同八〇六上)と評した解脱、すなわち涅槃悟りの深遠な境地を指そう。また菩薩五濁悪世に正覚発願するのは、貪欲瞋恚愚痴の多悩の衆生をして「生死大海を度脱し教えて正見の中に安住せしむ。涅槃に処し、甘露の水をましむ」(『悲華経』五、正蔵三・一九九中)ため、といった用例がある。ここでの甘露の水は煩悩を解毒する作用が認められよう。善導往生礼讃』にも「心を洗う甘露の水 目を悦ばしむ妙華の雲」と極楽を称讃する偈文があり、煩悩を洗い流すという甘露の効能が示唆されている。良忠はこの水について『無量寿経』上が極楽の池について「八功徳水湛然として盈満ようまんせり。清浄香潔にして、味わい甘露のごとし」(聖典一・二四二/浄全一・一六)、乃至調和冷煖じょうわりょうなんにして、自然に意に随って、たましいを開き体を悦ばしめ、心垢しんく蕩除とうじょす」(聖典一・二四三/浄全一・一六)と説く一節を対照させて解釈する(『往生礼讃私記浄全四・四一三下)。この他、甘露の用例は『六十華厳』や密教経典、あるいは『無量寿経』上では、菩薩の頭頂に甘露の水がそそがれて仏になれる証しとなることを表す「甘露灌頂」など枚挙に暇がない。また仏典ではないが『老子』三二章に「天地相合して、以て甘露くだす」とある。ここでの甘露は天から降る甘い露で、天下太平の吉兆とされる。一般的には飲食の美味であることをいう。


【参考】上村勝彦『インド神話』(東京書籍、一九八一)、田辺繁子訳『マヌ法典』(岩波書店、一九五三)、浄土宗総合研究所編『現代語訳浄土三部経』(浄土宗、二〇一一)、小川環樹編『世界の名著4 老子荘子』(中央公論社、一九七八)


【執筆者:袖山榮輝】