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「武城問答」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:32時点における最新版

ぶじょうもんどう/武城問答

慶長一三年(一六〇八)一一月一五日に江戸城で浄土宗日蓮宗の間で行われた宗論。発端は京都妙満寺の僧である常楽院日経が浄土、天台、禅を誹謗したことにある。浄土宗に対しては「浄土の経典は妄語であり成仏しない」また「念仏すると堕獄する」という書状を浄土宗西山派正覚寺の沢道に送った。沢道は存応に報告し、存応徳川家康に訴えて宗論の運びとなった。江戸城で行われた宗論では浄土宗から存応の高弟廓山、添えとして了的が選ばれた。日蓮宗側は日経のほかに上総の来源、琳碩、可円、和泉国堺の玄聴、玉雄の五人が同行した。判者は幕命を受けた真言宗高野山遍照院頼慶であった。浄土宗から存応幡随意、及把、不残が出席し、真言宗から三人、天台宗から三人、禅宗から五人が出席した。他に執権として八人、町奉行二人が例席し、家康、秀忠、忠輝の前で行われた。廓山は「四十余年顕真実」の一句をはじめとして種々質問したが、日経と五人は一問も答え得なかった。そこで宗論の法規に倣い日経等六人は法衣を判者に捧げ、宗論浄土宗の勝ちと終わった。翌年六条河原で日経は耳と鼻、後の五人は耳を切り取られて追放された。


【参考】岩崎敲玄『浄土宗史要』(国書刊行会、一九八四)、玉山成元『普光観智国師』(白帝社、一九七〇)、同「近世初期の浄土宗 とくに源誉存応の宗政を中心に」(『仏教史研究』三、一九六八)


【執筆者:田中芳道】