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提供: 新纂浄土宗大辞典

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嘉永二年(一八四九)—大正一二年(一九二三)一月一日。功[[蓮社]]勲誉信阿。<ruby>字<rt>あざな</rt></ruby>は物外。[[名越派]][[法灯]]最後の伝持者。現在の山形県村山市楯岡に松岡茂三郎の三男として生まれる。安政四年(一八五七)同所[[本覚寺]]の良欣卓雄について[[得度]]し、同年[[名越]][[檀林]][[専称寺]]に入り、慶応元年(一八六五)まで良声碩音について[[宗乗]]を学んだ。その後、山形県[[寿光]]寺・同浄雲寺[[住職]]を歴任するが、同三年神田<ruby>昌平黌<rt>しょうへいこう</rt></ruby>に学び、明治五年(一八七二)[[増上寺]]山内新谷の[[吉水玄信]]から天台学を、佐々木義範から[[唯識]]を学んだ。同八年栃木県鹿沼清林寺[[住職]]となり、[[名越派]]独立運動を起こしたため、一時[[僧籍]]剝奪の処分を受けたが、同二六年復籍。同三二年[[専称寺]][[住職]]となり、[[名越派]][[伝灯師]]として伝[[法道]]場を開筵した。その後、同三六年から同三九年まで韓国[[開教使]]長を勤めた。
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嘉永四(一八五一)—大正一二年(一九二三)一月一日。功[[蓮社]]勲誉信阿。<ruby>字<rt>あざな</rt></ruby>は物外。[[名越派]][[法灯]]最後の伝持者。現在の山形県村山市楯岡に松岡茂三郎の三男として生まれる。安政四年(一八五七)同所[[本覚寺]]の良欣卓雄について[[得度]]し、同年[[名越]][[檀林]][[専称寺]]に入り、慶応元年(一八六五)まで良声碩音について[[宗乗]]を学んだ。その後、山形県[[寿光]]寺・同浄雲寺[[住職]]を歴任するが、同三年神田<ruby>昌平黌<rt>しょうへいこう</rt></ruby>に学び、明治五年(一八七二)[[増上寺]]山内新谷の[[吉水玄信]]から天台学を、佐々木義範から[[唯識]]を学んだ。同八年栃木県鹿沼清林寺[[住職]]となり、[[名越派]]独立運動を起こしたため、一時[[僧籍]]剝奪の処分を受けたが、同二六年復籍。同三二年[[専称寺]][[住職]]となり、[[名越派]][[伝灯師]]として伝[[法道]]場を開筵した。その後、同三六年から同三九年まで韓国[[開教使]]長を勤めた。
 
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【参考】大橋俊雄『浄土宗人名事典』(斎々坊、二〇〇一)
 
【参考】大橋俊雄『浄土宗人名事典』(斎々坊、二〇〇一)

2023年10月2日 (月) 06:58時点における最新版

まつおかはくおう/松岡白雄

嘉永四(一八五一)—大正一二年(一九二三)一月一日。功蓮社勲誉信阿。あざなは物外。名越派法灯最後の伝持者。現在の山形県村山市楯岡に松岡茂三郎の三男として生まれる。安政四年(一八五七)同所本覚寺の良欣卓雄について得度し、同年名越檀林専称寺に入り、慶応元年(一八六五)まで良声碩音について宗乗を学んだ。その後、山形県寿光寺・同浄雲寺住職を歴任するが、同三年神田昌平黌しょうへいこうに学び、明治五年(一八七二)増上寺山内新谷の吉水玄信から天台学を、佐々木義範から唯識を学んだ。同八年栃木県鹿沼清林寺住職となり、名越派独立運動を起こしたため、一時僧籍剝奪の処分を受けたが、同二六年復籍。同三二年専称寺住職となり、名越派伝灯師として伝法道場を開筵した。その後、同三六年から同三九年まで韓国開教使長を勤めた。


【参考】大橋俊雄『浄土宗人名事典』(斎々坊、二〇〇一)


【参照項目】➡名越派


【執筆者:𠮷水成正】