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本覚寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

ほんがくじ/本覚寺

山形県村山市楯岡楯。犠徳山感応院。山形教区№七九。天正(一五七三—一五九二)はじめ頃良穏淵竜の開創。もとは薬師如来を祀った古刹。元亀四年(一五七三)に当地に大旱魃かんばつがあり、生きた牛を生贄いけにえとすれば降雨に恵まれるとの予言により、竜神の住むという碁点ごてんの淵に牛を沈めたところ、たちまち雨が降り出した。回国中の淵竜が通りかかり、牛の菩提を弔ったことにより、村民は堂宇を再興して淵竜を招いて中興とした。名越派の出羽布教にあたり重要な寺院であった。境内にある「左右の松」は県天然記念物である。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【参考】村山市史編さん委員会『村山市史』原始・古代・中世編(村山市、一九九一)


【執筆者:𠮷水成正】


京都市下京区富小路五条下ル本塩竈町。仏性山。京都教区№一〇三。開基は源実朝の妻、本覚尼。はじめ真言律宗寺院として建立されたという。文亀二年(一五〇二)、戦火で荒廃していたのを玉翁が再興し、それより浄土宗寺院となった。再建時は高辻烏丸にあったが、天正一九年(一五九一)、豊臣秀吉によって現住所に移転。なお参内寺(京都一九箇寺)としての寺格を誇り、最盛期には塔頭たっちゅう一四を有していた。朱印地三一石。


【資料】『浄家寺鑑』七、『雍州府志』四(『新修京都叢書』一〇、臨川書店、一九九四)、『蓮門精舎旧詞』二(続浄一八)


【参考】水野恭一郎・中井真孝「京畿浄土宗寺院遺文」(佛大紀要五八、一九七四)


【執筆者:加藤弘孝】