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「智目行足」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

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[[悟り]]に至るために必要な智を目に、行を足に譬えて表現したもの。『[[大智度論]]』八三に、「清涼の池には目有り足有れば皆な入るべき」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V25.0640c.html 正蔵二五・六四〇下])とある。[[智顗]]の『[[法華玄義]]』二上では「智は行の本たり。智目に因りて行足を起こす」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V33.0698b.html 正蔵三三・六九八中])、『同』[[三下]]では「[[智目行足]]をもって清涼池に到る」(同七一五中)と解と行の相即が説かれるなど、ほか多くの論釈にも見られる。また、[[湛然]]の『[[止観輔行伝弘決]]』五・一では、目を[[止観]]の解に、足を[[止観]]の行に譬えると釈している。日本の[[浄土教]]では、[[源信]]の『[[往生要集]]』劈頭に「それ[[往生]][[極楽]]の教行は、[[濁世]]末代の目足なり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J15_0037 浄全一五・三七上]/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V84.0033a.html 正蔵八四・三三上])という記述が見られる。[[法然]]では、『[[往生大要抄]]』などに「このごろの我らは[[智慧]]の眼しいて行法の足折れたる輩なり」(聖典四・三〇三/昭法全五〇)と、[[解行]]を目足に譬える表現が見られる一方、『[[選択集]]』一六などでは「[[善導]]の[[観経疏]]は、これ[[西方]]の指南、[[行者]]の目足なり」(聖典三・一八九/昭法全三四九)と肝要の意味で使用している。
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[[悟り]]に至るために必要な智を目に、行を足に譬えて表現したもの。『[[大智度論]]』八三に、「清涼の池には目有り足有れば皆な入るべき」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V25.0640c.html 正蔵二五・六四〇下])とある。[[智顗]]の『[[法華玄義]]』二上では「智は行の本たり。智目に因りて行足を起こす」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V33.0698b.html 正蔵三三・六九八中])、『同』[[三下]]では「[[智目行足]]をもって清涼池に到る」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V33.0715b.html 同七一五中])と解と行の相即が説かれるなど、ほか多くの論釈にも見られる。また、[[湛然]]の『[[止観輔行伝弘決]]』五・一では、目を[[止観]]の解に、足を[[止観]]の行に譬えると釈している。日本の[[浄土教]]では、[[源信]]の『[[往生要集]]』劈頭に「それ[[往生]][[極楽]]の教行は、[[濁世]]末代の目足なり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J15_0037 浄全一五・三七上]/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V84.0033a.html 正蔵八四・三三上])という記述が見られる。[[法然]]では、『[[往生大要抄]]』などに「このごろの我らは[[智慧]]の眼しいて行法の足折れたる輩なり」(聖典四・三〇三/昭法全五〇)と、[[解行]]を目足に譬える表現が見られる一方、『[[選択集]]』一六などでは「[[善導]]の[[観経疏]]は、これ[[西方]]の指南、[[行者]]の目足なり」(聖典三・一八九/昭法全三四九)と肝要の意味で使用している。
 
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【資料】『日講私記』
 
【資料】『日講私記』

2018年9月17日 (月) 10:08時点における版

ちもくぎょうそく/智目行足

悟りに至るために必要な智を目に、行を足に譬えて表現したもの。『大智度論』八三に、「清涼の池には目有り足有れば皆な入るべき」(正蔵二五・六四〇下)とある。智顗の『法華玄義』二上では「智は行の本たり。智目に因りて行足を起こす」(正蔵三三・六九八中)、『同』三下では「智目行足をもって清涼池に到る」(同七一五中)と解と行の相即が説かれるなど、ほか多くの論釈にも見られる。また、湛然の『止観輔行伝弘決』五・一では、目を止観の解に、足を止観の行に譬えると釈している。日本の浄土教では、源信の『往生要集』劈頭に「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり」(浄全一五・三七上正蔵八四・三三上)という記述が見られる。法然では、『往生大要抄』などに「このごろの我らは智慧の眼しいて行法の足折れたる輩なり」(聖典四・三〇三/昭法全五〇)と、解行を目足に譬える表現が見られる一方、『選択集』一六などでは「善導観経疏は、これ西方の指南、行者の目足なり」(聖典三・一八九/昭法全三四九)と肝要の意味で使用している。


【資料】『日講私記』


【参照項目】➡解行


【執筆者:市川定敬】