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「徳川家康」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

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天文一一年(一五四二)一二月二六日—元和二年(一六一六)四月一七日。江戸幕府初代将軍で慶長八年(一六〇三)—同一〇年在職。父は三河国岡崎の城主松平広忠、母は<ruby>於大<rt>おだい</rt></ruby>([[法名]][[伝通院]]殿)。幼名は竹千代。幼少の頃から今川氏の領国である駿河国駿府に送られ、一九歳までそこで過ごした。その間元服し、名を元信、ついで元康と称した。永禄三年(一五六〇)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、岡崎に戻り、松平家の[[菩提寺]][[大樹寺]]にある先祖の墓前で自害しようとしたが、[[住職]]である登誉[[智童]]に思い止められ、「厭離[[穢土]] 欣求[[浄土]]」の旗印を授けられた逸話は有名。その後、今川氏からの離脱を図り、元康から家康と[[改名]]し、織田信長と提携して大名としての実力を蓄えていく。天正一〇年(一五八二)、本能寺の変で織田信長が討たれると、勢力を増した羽柴秀吉と対立するが、同一四年に臣下の礼をとり、秀吉が小田原の後北条氏を討つと、その旧領を与えられ、同一八年江戸城に入った。豊臣政権の中では前田利家とともに秀吉を補佐したが、慶長三年(一五九八)・四年に両者が相次いで没すると、独自の動きを示すようになり、同五年対立した石田三成を関ヶ原で破り、実質的に天下を手中に収めた。同八年征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開く。元和元年(一六一五)、大坂夏の陣で豊臣家を亡ぼし幕府の支配を安泰なものとした。翌二年四月一七日、駿府城で病死すると、遺体は久能山に吉田[[神道]]で葬られ、[[位牌]]が岡崎[[大樹寺]]に祀られ、江戸の[[増上寺]]にも仏式の廟が作られた。元和元年発布の「[[浄土宗法度]]」は江戸時代の[[浄土宗]]に大きな影響を与えた。政治上は特定の宗派に偏らなかったが、個人的には代々[[浄土宗]]の[[信者]]で、母の葬儀は[[知恩院]]で行い、江戸に[[伝通院]]を建立し、また晩年の日課として「[[南無阿弥陀仏]]」と記した自筆の[[日課念仏]]が残されている。
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天文一一年(一五四二)一二月二六日—元和二年(一六一六)四月一七日。江戸幕府初代将軍で慶長八年(一六〇三)—同一〇年在職。父は三河国岡崎の城主松平広忠、母は<ruby>於大<rt>おだい</rt></ruby>([[法名]][[伝通院]]殿)。幼名は竹千代。幼少の頃から今川氏の領国である駿河国駿府に送られ、一九歳までそこで過ごした。その間元服し、名を元信、ついで元康と称した。永禄三年(一五六〇)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、岡崎に戻り、松平家の[[菩提寺]][[大樹寺]]にある先祖の墓前で自害しようとしたが、[[住職]]である登誉[[天室]]に思い止められ、「厭離[[穢土]] 欣求[[浄土]]」の旗印を授けられた逸話は有名。その後、今川氏からの離脱を図り、元康から家康と[[改名]]し、織田信長と提携して大名としての実力を蓄えていく。天正一〇年(一五八二)、本能寺の変で織田信長が討たれると、勢力を増した羽柴秀吉と対立するが、同一四年に臣下の礼をとり、秀吉が小田原の後北条氏を討つと、その旧領を与えられ、同一八年江戸城に入った。豊臣政権の中では前田利家とともに秀吉を補佐したが、慶長三年(一五九八)・四年に両者が相次いで没すると、独自の動きを示すようになり、同五年対立した石田三成を関ヶ原で破り、実質的に天下を手中に収めた。同八年征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開く。元和元年(一六一五)、大坂夏の陣で豊臣家を亡ぼし幕府の支配を安泰なものとした。翌二年四月一七日、駿府城で病死すると、遺体は久能山に吉田[[神道]]で葬られ、[[位牌]]が岡崎[[大樹寺]]に祀られ、江戸の[[増上寺]]にも仏式の廟が作られた。元和元年発布の「[[浄土宗法度]]」は江戸時代の[[浄土宗]]に大きな影響を与えた。政治上は特定の宗派に偏らなかったが、個人的には代々[[浄土宗]]の[[信者]]で、母の葬儀は[[知恩院]]で行い、江戸に[[伝通院]]を建立し、また晩年の日課として「[[南無阿弥陀仏]]」と記した自筆の[[日課念仏]]が残されている。
 
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【参考】中村孝也『新訂徳川家康文書の研究』(日本学術振興会、一九八〇)
 
【参考】中村孝也『新訂徳川家康文書の研究』(日本学術振興会、一九八〇)

2022年12月9日 (金) 08:44時点における最新版

とくがわいえやす/徳川家康

天文一一年(一五四二)一二月二六日—元和二年(一六一六)四月一七日。江戸幕府初代将軍で慶長八年(一六〇三)—同一〇年在職。父は三河国岡崎の城主松平広忠、母は於大おだい法名伝通院殿)。幼名は竹千代。幼少の頃から今川氏の領国である駿河国駿府に送られ、一九歳までそこで過ごした。その間元服し、名を元信、ついで元康と称した。永禄三年(一五六〇)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、岡崎に戻り、松平家の菩提寺大樹寺にある先祖の墓前で自害しようとしたが、住職である登誉天室に思い止められ、「厭離穢土 欣求浄土」の旗印を授けられた逸話は有名。その後、今川氏からの離脱を図り、元康から家康と改名し、織田信長と提携して大名としての実力を蓄えていく。天正一〇年(一五八二)、本能寺の変で織田信長が討たれると、勢力を増した羽柴秀吉と対立するが、同一四年に臣下の礼をとり、秀吉が小田原の後北条氏を討つと、その旧領を与えられ、同一八年江戸城に入った。豊臣政権の中では前田利家とともに秀吉を補佐したが、慶長三年(一五九八)・四年に両者が相次いで没すると、独自の動きを示すようになり、同五年対立した石田三成を関ヶ原で破り、実質的に天下を手中に収めた。同八年征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開く。元和元年(一六一五)、大坂夏の陣で豊臣家を亡ぼし幕府の支配を安泰なものとした。翌二年四月一七日、駿府城で病死すると、遺体は久能山に吉田神道で葬られ、位牌が岡崎大樹寺に祀られ、江戸の増上寺にも仏式の廟が作られた。元和元年発布の「浄土宗法度」は江戸時代の浄土宗に大きな影響を与えた。政治上は特定の宗派に偏らなかったが、個人的には代々浄土宗信者で、母の葬儀は知恩院で行い、江戸に伝通院を建立し、また晩年の日課として「南無阿弥陀仏」と記した自筆の日課念仏が残されている。


【参考】中村孝也『新訂徳川家康文書の研究』(日本学術振興会、一九八〇)


【参照項目】➡厭離穢土欣求浄土徳川氏


【執筆者:伊藤真昭】