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提供: 新纂浄土宗大辞典

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[[極楽浄土]]に人、天、[[声聞]]などの差別の名のある理由をあらわす言葉。[[阿弥陀仏]]の[[極楽浄土]]は本来[[平等]]の[[世界]]であって、そこにいる[[声聞]]・[[菩薩]]・天・人などのものはみな同じたぐいで、色、形に相違がないから[[世間]]でいうような区別した呼び名は必要としない。ただ[[浄土]]以外の他の[[世界]](余方)で一般的に用いている言葉にしたがって(因順)天や人などというのである。これは『[[無量寿経]]』上に「その諸もろの[[声聞]]・[[菩薩]]・天・人、[[智慧]]高名に[[神通]]洞達し、<ruby>咸<rt>みな</rt></ruby>同じく一類にして、形異状なし。ただ余方に因順するが故に、天・人の名あり」(聖典一・二四四/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0017 浄全一・一七])と説くのによる。[[聖冏]]はこれを『[[釈浄土二蔵義]]』で、「余方に因順するが故に[[天人]]の名あり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0343 浄全一二・三四三上])とするのを[[阿弥陀仏]]の[[教化]]の手だてとし、「<ruby>虚無<rt>こむ</rt></ruby>の身、<ruby>無極<rt>むごく</rt></ruby>の体」(同・三四三下)というのは[[他力]]の実体であるとしている。また[[曇鸞]]、[[義寂]]は因順の根拠を旧名、本業、居処によるなどと述べるが、[[聖冏]]は「但これ[[娑婆]][[世界]]の[[人天]]三乗に因順して<ruby>且<rt>しば</rt></ruby>らく[[人天]]等と説く、実には有名無実なり」(同・三四四上)としており、人間を救うための手だてとして説かれたものと言える。
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[[極楽浄土]]に人、天、[[声聞]]などの差別の名のある理由をあらわす言葉。[[阿弥陀仏]]の[[極楽浄土]]は本来[[平等]]の[[世界]]であって、そこにいる[[声聞]]・[[菩薩]]・天・人などのものはみな同じたぐいで、色、形に相違がないから[[世間]]でいうような区別した呼び名は必要としない。ただ[[浄土]]以外の他の[[世界]](余方)で一般的に用いている言葉にしたがって(因順)天や人などというのである。これは『[[無量寿経]]』上に「その諸もろの[[声聞]]・[[菩薩]]・天・人、[[智慧]]高名に[[神通]]洞達し、<ruby>咸<rt>みな</rt></ruby>同じく一類にして、形異状なし。ただ余方に因順するが故に、天・人の名あり」(聖典一・二四四/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0017 浄全一・一七])と説くのによる。[[聖冏]]はこれを『[[釈浄土二蔵義]]』で、「余方に因順するが故に[[天人]]の名あり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0343 浄全一二・三四三上])とするのを[[阿弥陀仏]]の[[教化]]の手だてとし、「<ruby>虚無<rt>こむ</rt></ruby>の身、<ruby>無極<rt>むごく</rt></ruby>の体」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0343 同・三四三下])というのは[[他力]]の実体であるとしている。また[[曇鸞]]、[[義寂]]は因順の根拠を旧名、本業、居処によるなどと述べるが、[[聖冏]]は「但これ[[娑婆]][[世界]]の[[人天]]三乗に因順して<ruby>且<rt>しば</rt></ruby>らく[[人天]]等と説く、実には有名無実なり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0344 同・三四四上])としており、人間を救うための手だてとして説かれたものと言える。
 
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【資料】『浄土頌義探玄鈔』下([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0641 浄全一二・六四一下]~二上)
 
【資料】『浄土頌義探玄鈔』下([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0641 浄全一二・六四一下]~二上)

2018年9月16日 (日) 10:11時点における版

いんじゅんよほう/因順余方

極楽浄土に人、天、声聞などの差別の名のある理由をあらわす言葉。阿弥陀仏極楽浄土は本来平等世界であって、そこにいる声聞菩薩・天・人などのものはみな同じたぐいで、色、形に相違がないから世間でいうような区別した呼び名は必要としない。ただ浄土以外の他の世界(余方)で一般的に用いている言葉にしたがって(因順)天や人などというのである。これは『無量寿経』上に「その諸もろの声聞菩薩・天・人、智慧高名に神通洞達し、みな同じく一類にして、形異状なし。ただ余方に因順するが故に、天・人の名あり」(聖典一・二四四/浄全一・一七)と説くのによる。聖冏はこれを『釈浄土二蔵義』で、「余方に因順するが故に天人の名あり」(浄全一二・三四三上)とするのを阿弥陀仏教化の手だてとし、「虚無こむの身、無極むごくの体」(同・三四三下)というのは他力の実体であるとしている。また曇鸞義寂は因順の根拠を旧名、本業、居処によるなどと述べるが、聖冏は「但これ娑婆世界人天三乗に因順してしばらく人天等と説く、実には有名無実なり」(同・三四四上)としており、人間を救うための手だてとして説かれたものと言える。


【資料】『浄土頌義探玄鈔』下(浄全一二・六四一下~二上)


【参照項目】➡虚無之身無極之体


【執筆者:金子寛哉】