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提供: 新纂浄土宗大辞典

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[[念仏]]実践に必要な四種の態度、方法。[[念仏]]実践の仕方で、<ruby>[[恭敬修]]<rt>くぎょうしゅ</rt></ruby>・<ruby>[[無余修]]<rt>むよしゅ</rt></ruby>・<ruby>[[無間修]]<rt>むけんじゅ</rt></ruby>・<ruby>[[長時修]]<rt>じょうじしゅ</rt></ruby>の四。[[善導]]『[[往生礼讃]]』前序に示される<ruby>[[安心]]<rt>あんじん</rt></ruby>・[[起行]]・<ruby>[[作業]]<rt>さごう</rt></ruby>という[[浄土教]]実践綱格のうち[[作業]]として説かれている具体的[[規範]]内容。『[[選択集]]』九には「[[念仏]]の[[行者]]、[[四修]]の法を行用すべきの文」(聖典三・一五四/昭法全三三四)として『[[往生礼讃]]』および『[[西方]]要決』の釈全文が引かれている。(一)[[恭敬修]]は<ruby>慇重修<rt>おんじゅうしゅ</rt></ruby>ともいい、<ruby>恭<rt>うやま</rt></ruby>いの態度で修すること。『[[西方]]要決』では恭いの対象を五種挙げている。①[[有縁]]の[[聖人]]。[[阿弥陀仏]]および[[西方浄土]]のこと。②[[有縁]]の像教。[[阿弥陀仏像]]や[[浄土]]経典のこと。③[[有縁]]の[[善知識]]。[[浄土教]]を説く者など。④同縁の<ruby>伴<rt>とも</rt></ruby>。同<ruby>修業<rt>しゅごう</rt></ruby>の者。⑤[[三宝]]。とりわけ[[住持三宝]]のこと、とある。(二)[[無余修]]は専ら[[阿弥陀仏]]とその[[浄土]]にかかる[[行業]]を修し、他の行を修さないこと。(三)[[無間修]]はそれらを継続して修し時間的にも他の[[行業]]によっても間断させないこと。『[[西方]]要決』では、遠い異郷で辛苦を強いられている者が、故郷の父母のもとへ帰ることをかたときも忘れることがない喩えを用い、常に[[往生]]の想いをなすべきことを説いている。また『[[往生礼讃]]』では[[煩悩]]によっても間断させないとし、もし[[煩悩]]がおきたならできるだけ時間をおかずに[[懺悔]]することとしている。(四)[[長時修]]は『[[往生礼讃]]』では別立てしていないが、他の三修を臨終までの一生涯継続することとする。[[聖光]]『[[授手印]]』では、[[恭敬修]]は[[憍慢]]心を[[対治]]し、[[無余修]]は雑起の心・疑慮不定の心を、[[無間修]]は懈怠の心を、[[長時修]]は退転流動の心を、それぞれ[[対治]]する[[修法]]とする。もと『[[俱舎論]]』二七、『[[摂大乗論]]釈』八などに、いわゆる聖者や[[菩薩]]が[[成仏]]をめざす[[修法]]として説かれたもので、『[[往生礼讃]]』などはそれらの名目を用いながらも、その意義内容を大きく転換させ、[[凡夫]]の修し方として改編している。『[[西方]]要決』ではとくに日常的内容、具体的説示となっている。中国では唐末代の『[[念仏鏡]]』に、日本では『[[往生要集]]』中にみられる。[[法然]]では『[[要義問答]]』にも説かれ、『[[往生要集]]』の釈書などには、[[無間修]]を最要とすべき旨の記述もみられる。
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[[念仏]]実践に必要な四種の態度、方法。[[念仏]]実践の仕方で、<ruby>[[恭敬修]]<rt>くぎょうしゅ</rt></ruby>・<ruby>[[無余修]]<rt>むよしゅ</rt></ruby>・<ruby>[[無間修]]<rt>むけんじゅ</rt></ruby>・<ruby>[[長時修]]<rt>じょうじしゅ</rt></ruby>の四。[[善導]]『[[往生礼讃]]』前序に示される<ruby>[[安心]]<rt>あんじん</rt></ruby>・[[起行]]・<ruby>[[作業]]<rt>さごう</rt></ruby>という[[浄土教]]実践綱格のうち[[作業]]として説かれている具体的[[規範]]内容。『[[選択集]]』九には「[[念仏]]の[[行者]]、[[四修]]の法を行用すべきの文」(聖典三・一五四/昭法全三三四)として『[[往生礼讃]]』および『[[西方]]要決』の釈全文が引かれている。(一)[[恭敬修]]は<ruby>慇重修<rt>おんじゅうしゅ</rt></ruby>ともいい、<ruby>恭<rt>うやま</rt></ruby>いの態度で修すること。『[[西方]]要決』では恭いの対象を五種挙げている。①[[有縁]]の[[聖人]]。[[阿弥陀仏]]および[[西方浄土]]の[[菩薩]][[聖衆]]のこと。②[[有縁]]の像教。[[阿弥陀仏像]]や[[浄土]]経典のこと。③[[有縁]]の[[善知識]]。[[浄土教]]を説く者など。④同縁の<ruby>伴<rt>とも</rt></ruby>。同<ruby>修業<rt>しゅごう</rt></ruby>の者。⑤[[三宝]]。とりわけ[[住持三宝]]のこと、とある。(二)[[無余修]]は専ら[[阿弥陀仏]]とその[[浄土]]にかかる[[行業]]を修し、他の行を修さないこと。(三)[[無間修]]はそれらを継続して修し時間的にも他の[[行業]]によっても間断させないこと。『[[西方]]要決』では、遠い異郷で辛苦を強いられている者が、故郷の父母のもとへ帰ることをかたときも忘れることがない喩えを用い、常に[[往生]]の想いをなすべきことを説いている。また『[[往生礼讃]]』では[[煩悩]]によっても間断させないとし、もし[[煩悩]]がおきたならできるだけ時間をおかずに[[懺悔]]することとしている。(四)[[長時修]]は『[[往生礼讃]]』では別立てしていないが、他の三修を臨終までの一生涯継続することとする。[[聖光]]『[[授手印]]』では、[[恭敬修]]は[[憍慢]]心を[[対治]]し、[[無余修]]は雑起の心・疑慮不定の心を、[[無間修]]は懈怠の心を、[[長時修]]は退転流動の心を、それぞれ[[対治]]する[[修法]]とする。もと『[[俱舎論]]』二七、『[[摂大乗論]]釈』八などに、いわゆる聖者や[[菩薩]]が[[成仏]]をめざす[[修法]]として説かれたもので、『[[往生礼讃]]』などはそれらの名目を用いながらも、その意義内容を大きく転換させ、[[凡夫]]の修し方として改編している。『[[西方]]要決』ではとくに日常的内容、具体的説示となっている。中国では唐末代の『[[念仏鏡]]』に、日本では『[[往生要集]]』中にみられる。[[法然]]では『[[要義問答]]』にも説かれ、『[[往生要集]]』の釈書などには、[[無間修]]を最要とすべき旨の記述もみられる。
 
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【参照項目】➡[[作業]]
 
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【執筆者:粂原勇慈】
 
【執筆者:粂原勇慈】

2018年8月22日 (水) 06:39時点における版

ししゅ/四修

念仏実践に必要な四種の態度、方法。念仏実践の仕方で、恭敬修くぎょうしゅ無余修むよしゅ無間修むけんじゅ長時修じょうじしゅの四。善導往生礼讃』前序に示される安心あんじん起行作業さごうという浄土教実践綱格のうち作業として説かれている具体的規範内容。『選択集』九には「念仏行者四修の法を行用すべきの文」(聖典三・一五四/昭法全三三四)として『往生礼讃』および『西方要決』の釈全文が引かれている。(一)恭敬修慇重修おんじゅうしゅともいい、うやまいの態度で修すること。『西方要決』では恭いの対象を五種挙げている。①有縁聖人阿弥陀仏および西方浄土菩薩聖衆のこと。②有縁の像教。阿弥陀仏像浄土経典のこと。③有縁善知識浄土教を説く者など。④同縁のとも。同修業しゅごうの者。⑤三宝。とりわけ住持三宝のこと、とある。(二)無余修は専ら阿弥陀仏とその浄土にかかる行業を修し、他の行を修さないこと。(三)無間修はそれらを継続して修し時間的にも他の行業によっても間断させないこと。『西方要決』では、遠い異郷で辛苦を強いられている者が、故郷の父母のもとへ帰ることをかたときも忘れることがない喩えを用い、常に往生の想いをなすべきことを説いている。また『往生礼讃』では煩悩によっても間断させないとし、もし煩悩がおきたならできるだけ時間をおかずに懺悔することとしている。(四)長時修は『往生礼讃』では別立てしていないが、他の三修を臨終までの一生涯継続することとする。聖光授手印』では、恭敬修憍慢心を対治し、無余修は雑起の心・疑慮不定の心を、無間修は懈怠の心を、長時修は退転流動の心を、それぞれ対治する修法とする。もと『俱舎論』二七、『摂大乗論釈』八などに、いわゆる聖者や菩薩成仏をめざす修法として説かれたもので、『往生礼讃』などはそれらの名目を用いながらも、その意義内容を大きく転換させ、凡夫の修し方として改編している。『西方要決』ではとくに日常的内容、具体的説示となっている。中国では唐末代の『念仏鏡』に、日本では『往生要集』中にみられる。法然では『要義問答』にも説かれ、『往生要集』の釈書などには、無間修を最要とすべき旨の記述もみられる。


【参照項目】➡作業


【執筆者:粂原勇慈】