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提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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左右の手の平を合わせる恭[[敬法]]。Ⓢañjali。[[浄土宗]]では[[堅実心合掌]]と<ruby>叉手<rt>しゃしゅ</rt></ruby>[[合掌]]の二種を用いる。[[玄奘]]の『大唐西域記』二に「致敬の式、其の義九等あり。…四には掌を合せて平拱す」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V51.0877c.html 正蔵五一・八七七下])と、インドにおける[[敬礼]]法の第四に[[合掌]]を挙げ、[[智顗]]の『観[[音義]]疏』上には「[[合掌]]とは、此方は[[拱手]]を以て恭と為し、外国は[[合掌]]を敬と為す。手は本二辺なり。今合して一と為すは、敢えて散誕せず専至[[一心]]なるを表す。[[一心]]相い当るが故に此を以て敬を表す」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V34.0922a.html 正蔵三四・九二二上])とあり、中国は<ruby>[[拱手]]<rt>こうしゅ</rt></ruby>、インドは[[合掌]]が敬いの法であり、[[合掌]]は専至[[一心]]を表すという。[[浄土宗]]においても[[義山]]が『[[無量寿経随聞講録]]』上之一に「[[合掌]]とは、即ち心の一なることを表す、是れ亦た身の[[威儀]]のみ。言うこころは、惣じて大事の義を言うには、心散乱してはならず、故に形も亦た散乱せぬ様、[[合掌]]するなり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J14_0282 浄全一四・二八二下])と、心を散乱せず[[至心]]に[[合掌]]することが肝要であることを述べている。また『[[釈氏要覧]]』中には「指合して其の掌を合せざる者は、良に心慢して情散するに由る故也。必ず須く指掌を相着けて虚せしめざるべし」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V54.0277b.html 正蔵五四・二七七中])と、両掌の間が空虚になることを戒めている。インドでは古来、右手を[[清浄]]、左手を不浄とする習慣があるが、[[密教]]でも[[合掌]]する左右の手について「[[定慧]]二手を以て仏界[[衆生]]界に配する時、左は[[衆生]]界、右は仏界なり」(『行法肝要鈔』[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V78.0880b.html 正蔵七八・八八〇中])と説き、[[浄土宗]]においても[[義山]]が『[[観経]]随聞講録』下之一に「左右の二手次の如く以て[[生仏]]二界を表す。則ち意は[[衆生]]〈左手〉をして諸仏〈右手〉に[[帰命]]するに在り」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J14_0661 浄全一四・六六一上])といい、左は[[衆生]]、右は仏を表す手であると述べている。[[合掌]]の種類は『大日経疏』に十二種[[合掌]]の名相が説かれるが、[[浄土宗]]ではその中の「当に中心を堅く相い著け、十指の頭<ruby>稍<rt>やや</rt></ruby>相い離して少し<ruby>許<rt>ばか</rt></ruby>り之を開かしむ。此を<ruby>寧尾拏<rt>ねびだ</rt></ruby>[[合掌]]と名づく。〈此には[[堅実心合掌]]と曰う〉」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V39.0714c.html 正蔵三九・七一四下])とする第一の[[堅実心合掌]]と、「十指の頭相い<ruby>叉<rt>まじ</rt></ruby>えて皆右手の指を以て左手の指の上に加えて、[[金剛]][[合掌]]の如くならしむるを<ruby>鉢囉拏摩<rt>はらだま</rt></ruby>[[合掌]]と名づく。〈此には[[帰命]][[合掌]]と曰う〉」(同)とする第七の[[帰命]][[合掌]]([[金剛]][[合掌]])の二種を用いている。[[妙瑞]]が『[[徹選択集私志記]]』に「彼の[[金剛]][[合掌]]を以て我浄家には名づけて[[叉手合掌]]と為す。我宗深秘は唯一印一明在るのみ。其の一印とは[[叉手合掌]]、其の一明とは[[南無阿弥陀仏]]是れなり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J08_0192 浄全八・一九二下])といい、『[[観経]]』にも「[[合掌]]叉手して諸仏を[[讃歎]]したてまつる」(聖典一・三〇七)、「[[合掌]]叉手して[[南無阿弥陀仏]]と称せしむ」(聖典一・三一〇)と説かれることから、[[浄土宗]]としては本来、[[叉手合掌]]が第一義とされている。しかし、[[諦忍]]は延享三年(一七四六)刊の『[[合掌]]叉手本儀編』に「世上の礼仏[[念仏]]する人を見るに、皆悉く両手の平を合するのみ。此れは是[[合掌]]合手と謂う可き者にて、全く[[叉手合掌]]に非ず」(一オ)と述べ、人々が[[叉手合掌]]を行っていないことを指摘している。現在も『[[法要集]]』[[威儀]]部の[[堅実心合掌]]の項に「[[大衆]]同列の場合は必ずこの[[合掌]]をする」と指示されているが、これについて[[板倉貫瑞]]『蓮門小子の枝折』には「叉手の仕方が統一し難く、止むを得ず寧尾拏[[合掌]]で統一することとした。…経文にはあきらかに[[叉手合掌]]とあって、重要な[[合掌]]ではあるが、多数同席のときは、必ず[[合掌]]の根本基本である寧尾拏[[合掌]]で統一し」([[浄土宗]]、一九七一、二八頁)といい、[[堅実心合掌]]を基本にした理由を記している。[[現行]]の[[法式]]では、[[導師]]以外は経本を持つとき、[[数珠]]を繰るとき、[[誦経]]中経本を置いて[[拱手]]するときなどの他は必ず[[堅実心合掌]]を用いる。
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左右の手の平を合わせる恭[[敬法]]。Ⓢañjali。[[浄土宗]]では[[堅実心合掌]]と<ruby>叉手<rt>しゃしゅ</rt></ruby>[[合掌]]の二種を用いる。[[玄奘]]の『大唐西域記』二に「致敬の式、其の義九等あり。…四には掌を合せて平拱す」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V51.0877c.html 正蔵五一・八七七下])と、インドにおける[[敬礼]]法の第四に[[合掌]]を挙げ、[[智顗]]の『観[[音義]]疏』上には「[[合掌]]とは、此方は[[拱手]]を以て恭と為し、外国は[[合掌]]を敬と為す。手は本二辺なり。今合して一と為すは、敢えて散誕せず専至[[一心]]なるを表す。[[一心]]相い当るが故に此を以て敬を表す」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V34.0922a.html 正蔵三四・九二二上])とあり、中国は<ruby>[[拱手]]<rt>こうしゅ</rt></ruby>、インドは[[合掌]]が敬いの法であり、[[合掌]]は専至[[一心]]を表すという。[[浄土宗]]においても[[義山]]が『[[無量寿経随聞講録]]』上之一に「[[合掌]]とは、即ち心の一なることを表す、是れ亦た身の[[威儀]]のみ。言うこころは、惣じて大事の義を言うには、心散乱してはならず、故に形も亦た散乱せぬ様、[[合掌]]するなり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J14_0282 浄全一四・二八二下])と、心を散乱せず[[至心]]に[[合掌]]することが肝要であることを述べている。また『[[釈氏要覧]]』中には「指合して其の掌を合せざる者は、良に心慢して情散するに由る故也。必ず須く指掌を相着けて虚せしめざるべし」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V54.0277b.html 正蔵五四・二七七中])と、両掌の間が空虚になることを戒めている。インドでは古来、右手を[[清浄]]、左手を不浄とする習慣があるが、[[密教]]でも[[合掌]]する左右の手について「[[定慧]]二手を以て仏界[[衆生]]界に配する時、左は[[衆生]]界、右は仏界なり」(『行法肝要鈔』[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V78.0880b.html 正蔵七八・八八〇中])と説き、[[浄土宗]]においても[[義山]]が『[[観経]]随聞講録』下之一に「左右の二手次の如く以て[[生仏]]二界を表す。則ち意は[[衆生]]〈左手〉をして諸仏〈右手〉に[[帰命]]するに在り」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J14_0661 浄全一四・六六一上])といい、左は[[衆生]]、右は仏を表す手であると述べている。[[合掌]]の種類は『大日経疏』に十二種[[合掌]]の名相が説かれるが、[[浄土宗]]ではその中の「当に中心を堅く相い著け、十指の頭<ruby>稍<rt>やや</rt></ruby>相い離して少し<ruby>許<rt>ばか</rt></ruby>り之を開かしむ。此を<ruby>寧尾拏<rt>ねびだ</rt></ruby>[[合掌]]と名づく。〈此には[[堅実心合掌]]と曰う〉」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V39.0714c.html 正蔵三九・七一四下])とする第一の[[堅実心合掌]]と、「十指の頭相い<ruby>叉<rt>まじ</rt></ruby>えて皆右手の指を以て左手の指の上に加えて、[[金剛]][[合掌]]の如くならしむるを<ruby>鉢囉拏摩<rt>はらだま</rt></ruby>[[合掌]]と名づく。〈此には[[帰命]][[合掌]]と曰う〉」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V39.0714c.html 同])とする第七の[[帰命]][[合掌]]([[金剛]][[合掌]])の二種を用いている。[[妙瑞]]が『[[徹選択集私志記]]』に「彼の[[金剛]][[合掌]]を以て我浄家には名づけて[[叉手合掌]]と為す。我宗深秘は唯一印一明在るのみ。其の一印とは[[叉手合掌]]、其の一明とは[[南無阿弥陀仏]]是れなり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J08_0192 浄全八・一九二下])といい、『[[観経]]』にも「[[合掌]]叉手して諸仏を[[讃歎]]したてまつる」(聖典一・三〇七)、「[[合掌]]叉手して[[南無阿弥陀仏]]と称せしむ」(聖典一・三一〇)と説かれることから、[[浄土宗]]としては本来、[[叉手合掌]]が第一義とされている。しかし、[[諦忍]]は延享三年(一七四六)刊の『[[合掌]]叉手本儀編』に「世上の礼仏[[念仏]]する人を見るに、皆悉く両手の平を合するのみ。此れは是[[合掌]]合手と謂う可き者にて、全く[[叉手合掌]]に非ず」(一オ)と述べ、人々が[[叉手合掌]]を行っていないことを指摘している。現在も『[[法要集]]』[[威儀]]部の[[堅実心合掌]]の項に「[[大衆]]同列の場合は必ずこの[[合掌]]をする」と指示されているが、これについて[[板倉貫瑞]]『蓮門小子の枝折』には「叉手の仕方が統一し難く、止むを得ず寧尾拏[[合掌]]で統一することとした。…経文にはあきらかに[[叉手合掌]]とあって、重要な[[合掌]]ではあるが、多数同席のときは、必ず[[合掌]]の根本基本である寧尾拏[[合掌]]で統一し」([[浄土宗]]、一九七一、二八頁)といい、[[堅実心合掌]]を基本にした理由を記している。[[現行]]の[[法式]]では、[[導師]]以外は経本を持つとき、[[数珠]]を繰るとき、[[誦経]]中経本を置いて[[拱手]]するときなどの他は必ず[[堅実心合掌]]を用いる。
 
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【資料】諦忍『合掌叉手本儀編』
 
【資料】諦忍『合掌叉手本儀編』
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2018年9月17日 (月) 01:17時点における最新版

がっしょう/合掌

左右の手の平を合わせる恭敬法。Ⓢañjali。浄土宗では堅実心合掌叉手しゃしゅ合掌の二種を用いる。玄奘の『大唐西域記』二に「致敬の式、其の義九等あり。…四には掌を合せて平拱す」(正蔵五一・八七七下)と、インドにおける敬礼法の第四に合掌を挙げ、智顗の『観音義疏』上には「合掌とは、此方は拱手を以て恭と為し、外国は合掌を敬と為す。手は本二辺なり。今合して一と為すは、敢えて散誕せず専至一心なるを表す。一心相い当るが故に此を以て敬を表す」(正蔵三四・九二二上)とあり、中国は拱手こうしゅ、インドは合掌が敬いの法であり、合掌は専至一心を表すという。浄土宗においても義山が『無量寿経随聞講録』上之一に「合掌とは、即ち心の一なることを表す、是れ亦た身の威儀のみ。言うこころは、惣じて大事の義を言うには、心散乱してはならず、故に形も亦た散乱せぬ様、合掌するなり」(浄全一四・二八二下)と、心を散乱せず至心合掌することが肝要であることを述べている。また『釈氏要覧』中には「指合して其の掌を合せざる者は、良に心慢して情散するに由る故也。必ず須く指掌を相着けて虚せしめざるべし」(正蔵五四・二七七中)と、両掌の間が空虚になることを戒めている。インドでは古来、右手を清浄、左手を不浄とする習慣があるが、密教でも合掌する左右の手について「定慧二手を以て仏界衆生界に配する時、左は衆生界、右は仏界なり」(『行法肝要鈔』正蔵七八・八八〇中)と説き、浄土宗においても義山が『観経随聞講録』下之一に「左右の二手次の如く以て生仏二界を表す。則ち意は衆生〈左手〉をして諸仏〈右手〉に帰命するに在り」(浄全一四・六六一上)といい、左は衆生、右は仏を表す手であると述べている。合掌の種類は『大日経疏』に十二種合掌の名相が説かれるが、浄土宗ではその中の「当に中心を堅く相い著け、十指の頭やや相い離して少しばかり之を開かしむ。此を寧尾拏ねびだ合掌と名づく。〈此には堅実心合掌と曰う〉」(正蔵三九・七一四下)とする第一の堅実心合掌と、「十指の頭相いまじえて皆右手の指を以て左手の指の上に加えて、金剛合掌の如くならしむるを鉢囉拏摩はらだま合掌と名づく。〈此には帰命合掌と曰う〉」()とする第七の帰命合掌金剛合掌)の二種を用いている。妙瑞が『徹選択集私志記』に「彼の金剛合掌を以て我浄家には名づけて叉手合掌と為す。我宗深秘は唯一印一明在るのみ。其の一印とは叉手合掌、其の一明とは南無阿弥陀仏是れなり」(浄全八・一九二下)といい、『観経』にも「合掌叉手して諸仏を讃歎したてまつる」(聖典一・三〇七)、「合掌叉手して南無阿弥陀仏と称せしむ」(聖典一・三一〇)と説かれることから、浄土宗としては本来、叉手合掌が第一義とされている。しかし、諦忍は延享三年(一七四六)刊の『合掌叉手本儀編』に「世上の礼仏念仏する人を見るに、皆悉く両手の平を合するのみ。此れは是合掌合手と謂う可き者にて、全く叉手合掌に非ず」(一オ)と述べ、人々が叉手合掌を行っていないことを指摘している。現在も『法要集威儀部の堅実心合掌の項に「大衆同列の場合は必ずこの合掌をする」と指示されているが、これについて板倉貫瑞『蓮門小子の枝折』には「叉手の仕方が統一し難く、止むを得ず寧尾拏合掌で統一することとした。…経文にはあきらかに叉手合掌とあって、重要な合掌ではあるが、多数同席のときは、必ず合掌の根本基本である寧尾拏合掌で統一し」(浄土宗、一九七一、二八頁)といい、堅実心合掌を基本にした理由を記している。現行法式では、導師以外は経本を持つとき、数珠を繰るとき、誦経中経本を置いて拱手するときなどの他は必ず堅実心合掌を用いる。


【資料】諦忍『合掌叉手本儀編』


【参照項目】➡堅実心合掌叉手合掌


【執筆者:熊井康雄】