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提供: 新纂浄土宗大辞典

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[[専修念仏]]を修すれば、十回のうち十回とも[[往生]]するとする[[善導]]の説。[[専修念仏]]をすれば、[[往生]]が確定的であることを示しているとされる。[[善導]]『[[往生礼讃]]』に、「若し能く上の如く[[念念相続]]し<ruby>畢命<rt>ひつみょう</rt></ruby>を<ruby>期<rt>ご</rt></ruby>と為す者は、十は即ち十生じ、百は即ち百生ず」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0356 浄全四・三五六下])や、「<ruby>但使<rt>もし</rt></ruby>意を専らにして作す者は、十は即ち十生ず」(同三五七上)が出典である。そして、[[専修]]をせず、<ruby>[[雑業]]<rt>ぞうごう</rt></ruby>を[[修行]]した場合には、[[往生]]する可能性が極めて低いことを指摘する。すなわち、同書に「若し専を捨て[[雑業]]を修せんと欲する者は、百の時<ruby>希<rt>まれ</rt></ruby>に一、二を得、千の時希に三、五を得」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0356 浄全四・三五六下])や、「雑を修して不[[至心]]の者は、千が中に一も無し」(同三五七上)などと述べている。具体的にいかなる行を専らに修めるのか、同書には必ずしも明言されていないように見えるが、文脈から、[[五念門]]か[[称名念仏]]と[[三心]]・[[四修]]を[[修行]]することと考えられる。また、同書のこの周辺の文では、なぜ[[専修]]で「[[十即十生]]」か、なぜ[[雑業]]で「百時希得一二」なのか提起し、[[二行の得失]]をあげ、その解答としている。[[法然]]は、この[[善導]]の説を承けて、『[[選択集]]』二で、右記の内容を含んだ『[[往生礼讃]]』の文を引用したあと、私釈で、「私に云く、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに[[百即百生]]の[[専修]][[正行]]を捨てて、堅く[[千中無一]]の[[雑修雑行]]を執せんや。[[行者]]能くこれを思量せよ」(聖典三・一一三/昭法全三一七)と、[[雑修雑行]]を捨て、[[専修]][[正行]]を修すべきことを勧めている。また、『[[念仏往生要義抄]]』では、「[[往生]]疑なしと深く思い入れて[[南無阿弥陀仏]][[南無阿弥陀仏]]と申せば、善人も悪人も、男子も女人も、十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな[[往生]]を遂ぐるなり」(聖典四・三二三/昭法全六八二)と、[[十即十生]][[百即百生]]の条件を、疑いなく[[往生]]すると思って[[念仏]]することとしている。
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[[専修念仏]]を修すれば、十回のうち十回とも[[往生]]するとする[[善導]]の説。[[専修念仏]]をすれば、[[往生]]が確定的であることを示しているとされる。[[善導]]『[[往生礼讃]]』に、「若し能く上の如く[[念念相続]]し<ruby>畢命<rt>ひつみょう</rt></ruby>を<ruby>期<rt>ご</rt></ruby>と為す者は、十は即ち十生じ、百は即ち百生ず」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0356 浄全四・三五六下])や、「<ruby>但使<rt>もし</rt></ruby>意を専らにして作す者は、十は即ち十生ず」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0357 同三五七上])が出典である。そして、[[専修]]をせず、<ruby>[[雑業]]<rt>ぞうごう</rt></ruby>を[[修行]]した場合には、[[往生]]する可能性が極めて低いことを指摘する。すなわち、同書に「若し専を捨て[[雑業]]を修せんと欲する者は、百の時<ruby>希<rt>まれ</rt></ruby>に一、二を得、千の時希に三、五を得」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0356 浄全四・三五六下])や、「雑を修して不[[至心]]の者は、千が中に一も無し」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0357 同三五七上])などと述べている。具体的にいかなる行を専らに修めるのか、同書には必ずしも明言されていないように見えるが、文脈から、[[五念門]]か[[称名念仏]]と[[三心]]・[[四修]]を[[修行]]することと考えられる。また、同書のこの周辺の文では、なぜ[[専修]]で「[[十即十生]]」か、なぜ[[雑業]]で「百時希得一二」なのか提起し、[[二行の得失]]をあげ、その解答としている。[[法然]]は、この[[善導]]の説を承けて、『[[選択集]]』二で、右記の内容を含んだ『[[往生礼讃]]』の文を引用したあと、私釈で、「私に云く、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに[[百即百生]]の[[専修]][[正行]]を捨てて、堅く[[千中無一]]の[[雑修雑行]]を執せんや。[[行者]]能くこれを思量せよ」(聖典三・一一三/昭法全三一七)と、[[雑修雑行]]を捨て、[[専修]][[正行]]を修すべきことを勧めている。また、『[[念仏往生要義抄]]』では、「[[往生]]疑なしと深く思い入れて[[南無阿弥陀仏]][[南無阿弥陀仏]]と申せば、善人も悪人も、男子も女人も、十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな[[往生]]を遂ぐるなり」(聖典四・三二三/昭法全六八二)と、[[十即十生]][[百即百生]]の条件を、疑いなく[[往生]]すると思って[[念仏]]することとしている。
 
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【参照項目】➡[[千中無一]]、[[十三得失]]
 
【参照項目】➡[[千中無一]]、[[十三得失]]
 
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【執筆者:角野玄樹】
 
【執筆者:角野玄樹】

2018年9月17日 (月) 10:08時点における版

じっそくじっしょう/十即十生

専修念仏を修すれば、十回のうち十回とも往生するとする善導の説。専修念仏をすれば、往生が確定的であることを示しているとされる。善導往生礼讃』に、「若し能く上の如く念念相続畢命ひつみょうと為す者は、十は即ち十生じ、百は即ち百生ず」(浄全四・三五六下)や、「但使もし意を専らにして作す者は、十は即ち十生ず」(同三五七上)が出典である。そして、専修をせず、雑業ぞうごう修行した場合には、往生する可能性が極めて低いことを指摘する。すなわち、同書に「若し専を捨て雑業を修せんと欲する者は、百の時まれに一、二を得、千の時希に三、五を得」(浄全四・三五六下)や、「雑を修して不至心の者は、千が中に一も無し」(同三五七上)などと述べている。具体的にいかなる行を専らに修めるのか、同書には必ずしも明言されていないように見えるが、文脈から、五念門称名念仏三心四修修行することと考えられる。また、同書のこの周辺の文では、なぜ専修で「十即十生」か、なぜ雑業で「百時希得一二」なのか提起し、二行の得失をあげ、その解答としている。法然は、この善導の説を承けて、『選択集』二で、右記の内容を含んだ『往生礼讃』の文を引用したあと、私釈で、「私に云く、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生専修正行を捨てて、堅く千中無一雑修雑行を執せんや。行者能くこれを思量せよ」(聖典三・一一三/昭法全三一七)と、雑修雑行を捨て、専修正行を修すべきことを勧めている。また、『念仏往生要義抄』では、「往生疑なしと深く思い入れて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申せば、善人も悪人も、男子も女人も、十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな往生を遂ぐるなり」(聖典四・三二三/昭法全六八二)と、十即十生百即百生の条件を、疑いなく往生すると思って念仏することとしている。


【参照項目】➡千中無一十三得失


【執筆者:角野玄樹】