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「写経会」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:26時点における最新版

しゃきょうえ/写経会

発願・報恩・追善などのために仏典(経律論)を書写して供養する法会写経は書写した仏典をもいい、もとはその仏典を伝弘でんぐ読誦・講究するためのものであったが、『法華経』などに写経功徳が述べられているので、後に国家の安寧、追善供養、自己の得脱などのために行われた。日本では天武天皇二年(六七三)川原寺かわらでら書生てかき写経生)をあつめて一切経を書写したのが写経会の始まりという(『日本書紀』二九、『日本古典文学大系』六八、四一一)。光明皇后の皇后宮職が写経所を経営し、則天武后の造寺造仏写経に劣らぬ多量の一切経を保有しようとする熱意により行われた。平安期になって、天皇・貴族などは、頓写とんしゃ経(巻数の多い経典を写経する人が分担しあって定めた時間内に書写する)、漸写ぜんしゃ経(多日にわたって書写する)、一筆経(一人で大部の経典を書写する)、装飾経の平家納経などで功徳を積んだ。文治四年(一一八八)後白河法皇河東押小路かとうおしのこうじ殿(当時の院御所)で「如法経にょほうきょう供養」を修すときに、法然は『法華経』を一定の法式に則って書写する先達を勤めた(『四十八巻伝』九、聖典六・九五)。元久元年(一二〇四)後白河法皇の一三回忌に、蓮華王院三十三間堂)で「浄土三部経」の書写と六時礼讃を修したが、このときに法然は法華の如法経なぞらえて『浄土三部経如法経次第』の法則を考案して厳修した。このときより追福のために善根を修すようになったという(『四十八巻伝』一〇、聖典六・一一三~六/昭法全八二六~九)。また現在は経典(四誓偈歎仏頌)のみならず、善導往生礼讃偈発願文法然法語をも仏典として書写している。知恩院では法然の七五〇年遠忌に際し『一枚起請文』の写経会を開催し、増上寺では昭和五四年(一九七九)に善導の一三〇〇回忌のお待ち受けに「十四行偈」の写経会を修した。近年の写経は修養のために行われ、そのときには、塗香ずこうをして、堂内に香を焚き、荘厳して、料紙に息がかからないように覆子ぶくす覆面瓠ふくめんこ)をすることもあり、経文を一行一七字に書写し、写経が終われば本尊前に納経し、増上寺では『法事讃』の「送経の文」を唱え(浄全四・三二上)、その後期日を選んで経塚に埋経する供養会を行っている。また本経(写本の原本)を写し、あるいは写経用紙を上にのせて上からなぞって写経する方法もある。


【資料】「頓写如法経法要」(『声明並特殊法要集』増上寺、一九四一)、「頓写会」(『一遇』一遇会、一九七四)


【参考】『古事類苑』宗教部一(吉川弘文館、一九八二)


【参照項目】➡写経


【執筆者:西城宗隆】