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「円応寺」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

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=えんおうじ/円応寺=
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=えんのうじ/円応寺=
大分県中津市[[寺町]]。鏡知山大照院。大分[[教区]]№一。[[開山]]は不詳。戦乱で寺が二度焼失し、古い[[位牌]]や[[過去帳]]等が散逸したため中興以前の記録は残っていない。中興は天[[蓮社]][[真誉]][[見道]]。黒田<ruby>如水<rt>じょすい</rt></ruby>(<ruby>孝高<rt>よしたか</rt></ruby>)が中津城主のとき、当寺が[[無住]]であったため[[総本山]][[知恩院]]に遣いを出し、天正一五年(一五八七)に[[見道]]の[[住持]]となった。その後、如水が筑前に移住したときに[[見道]]を召し、筑前にも[[円応寺]]という名の寺を建立させた。九州の[[円応寺]]と呼ばれる[[寺院]]は当寺を含めて六箇寺あるが当寺の開創が始めである。
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福岡市中央区大手門。照福山顕光院。福岡[[教区]]№一三八。筑前国<ruby>[[触頭]]<rt>ふれがしら</rt></ruby>であった。慶長七年(一六〇二)、[[山号]]の由来である黒田如水(官兵衛)の妻、照福院の創建。[[開山]][[見道]]で、同一七年に当寺で[[遷化]]。黒田長政の母でもある照福院は、寛永四年(一六二七)、福岡城で没し当寺に祀られる。しかし、昭和二〇年(一九四五)の戦災と戦後の都市計画により、墓は、如水の墓がある[[崇福寺]]に移転。現在の[[本堂]]は同五四年に建立。
 
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【資料】『蓮門精舎旧詞』三三(続浄一九)、『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)
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【資料】『蓮門精舎旧詞』三八(続浄一九)
 
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【執筆者:今井英之】
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【参考】奥村玉蘭『筑前名所図会』一(西日本新聞社、一九七三)、宇高良哲『近世関東仏教教団史の研究』(文化書院、一九九九)
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【執筆者:金田昭教】

2018年3月30日 (金) 06:20時点における最新版

えんのうじ/円応寺

福岡市中央区大手門。照福山顕光院。福岡教区№一三八。筑前国触頭ふれがしらであった。慶長七年(一六〇二)、山号の由来である黒田如水(官兵衛)の妻、照福院の創建。開山見道で、同一七年に当寺で遷化。黒田長政の母でもある照福院は、寛永四年(一六二七)、福岡城で没し当寺に祀られる。しかし、昭和二〇年(一九四五)の戦災と戦後の都市計画により、墓は、如水の墓がある崇福寺に移転。現在の本堂は同五四年に建立。


【資料】『蓮門精舎旧詞』三八(続浄一九)


【参考】奥村玉蘭『筑前名所図会』一(西日本新聞社、一九七三)、宇高良哲『近世関東仏教教団史の研究』(文化書院、一九九九)


【執筆者:金田昭教】