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仏・[[菩薩]]の[[智慧]]の働きを[[象徴]]する光。迷妄の暗闇を破り真理の明るみを表し出す光のこと。ⓈprabhāⓈālokaなどの訳語。またⓈprabhākara([[光明]]を放つ者)という用法もある。[[阿含]]経典では[[仏陀]]が[[光明]]を放つ存在とされ、また諸天(神々)などが[[光明]]を放つ場面が描かれる。大乗経典においても様々に[[光明]]は語られ、[[浄土教]]においては『[[無量寿経]]』上に「[[無量寿仏]]の[[威神]][[光明]]、最尊第一なり。諸仏の[[光明]]、能く及ばざる所なり」(聖典一・二三七/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0013 浄全一・一三])と[[阿弥陀仏]]の[[光明]]が説かれ、また[[極楽浄土]]の情景とりわけ[[光明]]が描写されている。オリエント学や[[宗教学]]の研究では、仏典に[[光明]]が多く説かれる理由として、イラン地方の[[宗教]]の影響が指摘されることもあるが[[定説]]ではない。
 
仏・[[菩薩]]の[[智慧]]の働きを[[象徴]]する光。迷妄の暗闇を破り真理の明るみを表し出す光のこと。ⓈprabhāⓈālokaなどの訳語。またⓈprabhākara([[光明]]を放つ者)という用法もある。[[阿含]]経典では[[仏陀]]が[[光明]]を放つ存在とされ、また諸天(神々)などが[[光明]]を放つ場面が描かれる。大乗経典においても様々に[[光明]]は語られ、[[浄土教]]においては『[[無量寿経]]』上に「[[無量寿仏]]の[[威神]][[光明]]、最尊第一なり。諸仏の[[光明]]、能く及ばざる所なり」(聖典一・二三七/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0013 浄全一・一三])と[[阿弥陀仏]]の[[光明]]が説かれ、また[[極楽浄土]]の情景とりわけ[[光明]]が描写されている。オリエント学や[[宗教学]]の研究では、仏典に[[光明]]が多く説かれる理由として、イラン地方の[[宗教]]の影響が指摘されることもあるが[[定説]]ではない。
 
==[[[浄土教]]と[[光明]]]==
 
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『[[無量寿経]]』ではⓈprabhāの漢訳語として[[光明]]の語が多見され、また第十二[[光明無量]]の願が説かれているように、[[光明]]の[[功徳]]が見られる。特に[[極楽浄土]]の様相は「一一の宝華に、百千億の葉あり。その華の[[光明]]、[[無量]]種の色あり。青色には青光あり。白色には白光あり。玄黄朱紫の光色もまたしかなり。<ruby>暐曄煥爛<rt>いようかんらん</rt></ruby>にして、明曜なること日月のごとし。一一の華の中より、三十六百千億の光を出だす。一一の光の中より、三十六百千億の仏を出だす」(聖典一・二四七/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0018 浄全一・一八])と説かれた。また『[[観経]]』には「[[如意]]珠王より、金色微妙の[[光明]]を湧出す。その光、化して、百宝色の鳥となる。和鳴哀雅にして、常に[[念仏]]・念法・念僧を讃ず」(同二九六/同四一)と、さらに『[[阿弥陀経]]』には「池の中に[[蓮華]]あり。大きさ車輪のごとし。青色には青光あり。黄色には黄光あり。赤色には赤光あり。白色には白光あり。微妙香潔なり」(同三一六/同五二)と説かれている。
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『[[無量寿経]]』ではⓈprabhāの漢訳語として[[光明]]の語が多見され、また第十二[[光明無量]]の願が説かれているように、[[光明]]の[[功徳]]が見られる。特に[[極楽浄土]]の様相は「一一の宝華に、百千億の葉あり。その華の[[光明]]、[[無量]]種の色あり。青色には青光あり。白色には白光あり。玄黄朱紫の光色もまたしかなり。<ruby>暐曄煥爛<rt>いようかんらん</rt></ruby>にして、明曜なること日月のごとし。一一の華の中より、三十六百千億の光を出だす。一一の光の中より、三十六百千億の仏を出だす」(聖典一・二四七/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0018 浄全一・一八])と説かれた。また『[[観経]]』には「[[如意]]珠王より、金色微妙の[[光明]]を湧出す。その光、化して、百宝色の鳥となる。和鳴哀雅にして、常に[[念仏]]・念法・念僧を讃ず」(同二九六/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0041 同四一])と、さらに『[[阿弥陀経]]』には「池の中に[[蓮華]]あり。大きさ車輪のごとし。青色には青光あり。黄色には黄光あり。赤色には赤光あり。白色には白光あり。微妙香潔なり」(同三一六/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0052 同五二])と説かれている。
 
==[[[光明]]の種別]==
 
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[[光明]]には種々の種類がある。[[龍樹]]の『智度論』四七には「[[光明]]に二種あり、一には[[色光]]、二には[[智慧]]光なり」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/satdb2015.php?vuseid=25.0229正蔵二五・二二九)]と言って[[色光]]と[[智慧]]光とが挙げられる。法蔵の『[[華厳経]]探玄記』三では「[[光明]]に二種あり。一には[[智光]]、二には身光なり」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V35.0146c.html 正蔵三五・一四六下])と言う。この二種は内光と外光とも称され、基の撰と伝えられる『[[阿弥陀経通賛疏]]』中では「光に二種あり、一には内光、即ち智なり。内に理を照らす。二には外光、即ち身光は外照なり。これ即ち身光なり」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V37.0342a.html 正蔵三七・三四二上])と述べている。これらは、[[仏陀]]の放つ[[光明]]に、[[仏陀]]の[[智慧]]に基づくものと、[[仏陀]]の身体に基づくものがあることを示している。[[仏陀]]の身体より放たれる身光には、[[常光]]と放光の二種がある。[[常光]]は[[円光]]とも言われ、仏身から常に放たれる光で、放光とは現起光とも[[神通光]]ともいわれ、[[仏陀]]が様々な時に応じて発する[[光明]]である。また、仏の全身より放つ光を挙身光、[[白毫]]より放つのを[[白毫]]光、毫光、眉間光といい、毛孔より放つのを毛孔光、頭頂より放つのを頭光、仏の像の背後から放つのを[[後光]]という。[[法然]]は『[[逆修説法]]』<ruby>三七<rt>さんしち</rt></ruby>日で[[光明]]を説明する中で、[[光明]]を[[常光]]と[[神通光]]とに大別し、[[常光]]を「長く照らし不断に照らす光なり」(昭法全二四七)とし、[[神通光]]を「これ別別に照らす光なり。…[[阿弥陀仏]]の[[神通光]]は[[摂取不捨]]の[[光明]]なり。[[念仏]]の[[衆生]]有るの時は照らし、[[念仏]]の[[衆生]]の無きの時は照らしたまうこと無きが故なり」(同)と説明する。[[良暁]]の『[[決疑鈔見聞]]』三では「<ruby>凡<rt>およ</rt></ruby>そ仏仏に皆[[常光]][[神通光]]有りて余仏の[[光明]]は[[常光]]は一尋なり。[[神通光]]は[[無量]]無辺を照らすも、今[[弥陀]]の[[光明]]は[[常光]]も[[神通光]]も共に[[法界]]を照らす。但し[[常光]]は[[三世]]常恒の[[光明]]なり。[[神通光]]は起不起有りて機の得益に随いて[[常光]]の<ruby>外<rt>ほか</rt></ruby>に別の[[光明]]を指し<ruby>副<rt>そ</rt></ruby>ゆるなり。すなわち[[九品]]生[[来迎]]の[[光明]][[乃至]]彼土[[授記]]の光益等なり。今の[[念仏]]不捨の[[光明]]はかくの如きの[[神通光]]にはあらず。[[常光]]の上に仏の御意を相い副えて不捨の益有るを摂取の光と云うなり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J07_0412 浄全七・四一二上])と[[解釈]]している。
 
[[光明]]には種々の種類がある。[[龍樹]]の『智度論』四七には「[[光明]]に二種あり、一には[[色光]]、二には[[智慧]]光なり」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/satdb2015.php?vuseid=25.0229正蔵二五・二二九)]と言って[[色光]]と[[智慧]]光とが挙げられる。法蔵の『[[華厳経]]探玄記』三では「[[光明]]に二種あり。一には[[智光]]、二には身光なり」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V35.0146c.html 正蔵三五・一四六下])と言う。この二種は内光と外光とも称され、基の撰と伝えられる『[[阿弥陀経通賛疏]]』中では「光に二種あり、一には内光、即ち智なり。内に理を照らす。二には外光、即ち身光は外照なり。これ即ち身光なり」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V37.0342a.html 正蔵三七・三四二上])と述べている。これらは、[[仏陀]]の放つ[[光明]]に、[[仏陀]]の[[智慧]]に基づくものと、[[仏陀]]の身体に基づくものがあることを示している。[[仏陀]]の身体より放たれる身光には、[[常光]]と放光の二種がある。[[常光]]は[[円光]]とも言われ、仏身から常に放たれる光で、放光とは現起光とも[[神通光]]ともいわれ、[[仏陀]]が様々な時に応じて発する[[光明]]である。また、仏の全身より放つ光を挙身光、[[白毫]]より放つのを[[白毫]]光、毫光、眉間光といい、毛孔より放つのを毛孔光、頭頂より放つのを頭光、仏の像の背後から放つのを[[後光]]という。[[法然]]は『[[逆修説法]]』<ruby>三七<rt>さんしち</rt></ruby>日で[[光明]]を説明する中で、[[光明]]を[[常光]]と[[神通光]]とに大別し、[[常光]]を「長く照らし不断に照らす光なり」(昭法全二四七)とし、[[神通光]]を「これ別別に照らす光なり。…[[阿弥陀仏]]の[[神通光]]は[[摂取不捨]]の[[光明]]なり。[[念仏]]の[[衆生]]有るの時は照らし、[[念仏]]の[[衆生]]の無きの時は照らしたまうこと無きが故なり」(同)と説明する。[[良暁]]の『[[決疑鈔見聞]]』三では「<ruby>凡<rt>およ</rt></ruby>そ仏仏に皆[[常光]][[神通光]]有りて余仏の[[光明]]は[[常光]]は一尋なり。[[神通光]]は[[無量]]無辺を照らすも、今[[弥陀]]の[[光明]]は[[常光]]も[[神通光]]も共に[[法界]]を照らす。但し[[常光]]は[[三世]]常恒の[[光明]]なり。[[神通光]]は起不起有りて機の得益に随いて[[常光]]の<ruby>外<rt>ほか</rt></ruby>に別の[[光明]]を指し<ruby>副<rt>そ</rt></ruby>ゆるなり。すなわち[[九品]]生[[来迎]]の[[光明]][[乃至]]彼土[[授記]]の光益等なり。今の[[念仏]]不捨の[[光明]]はかくの如きの[[神通光]]にはあらず。[[常光]]の上に仏の御意を相い副えて不捨の益有るを摂取の光と云うなり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J07_0412 浄全七・四一二上])と[[解釈]]している。

2018年9月17日 (月) 01:17時点における版

こうみょう/光明

仏・菩薩智慧の働きを象徴する光。迷妄の暗闇を破り真理の明るみを表し出す光のこと。ⓈprabhāⓈālokaなどの訳語。またⓈprabhākara(光明を放つ者)という用法もある。阿含経典では仏陀光明を放つ存在とされ、また諸天(神々)などが光明を放つ場面が描かれる。大乗経典においても様々に光明は語られ、浄土教においては『無量寿経』上に「無量寿仏威神光明、最尊第一なり。諸仏の光明、能く及ばざる所なり」(聖典一・二三七/浄全一・一三)と阿弥陀仏光明が説かれ、また極楽浄土の情景とりわけ光明が描写されている。オリエント学や宗教学の研究では、仏典に光明が多く説かれる理由として、イラン地方の宗教の影響が指摘されることもあるが定説ではない。

浄土教光明

無量寿経』ではⓈprabhāの漢訳語として光明の語が多見され、また第十二光明無量の願が説かれているように、光明功徳が見られる。特に極楽浄土の様相は「一一の宝華に、百千億の葉あり。その華の光明無量種の色あり。青色には青光あり。白色には白光あり。玄黄朱紫の光色もまたしかなり。暐曄煥爛いようかんらんにして、明曜なること日月のごとし。一一の華の中より、三十六百千億の光を出だす。一一の光の中より、三十六百千億の仏を出だす」(聖典一・二四七/浄全一・一八)と説かれた。また『観経』には「如意珠王より、金色微妙の光明を湧出す。その光、化して、百宝色の鳥となる。和鳴哀雅にして、常に念仏・念法・念僧を讃ず」(同二九六/同四一)と、さらに『阿弥陀経』には「池の中に蓮華あり。大きさ車輪のごとし。青色には青光あり。黄色には黄光あり。赤色には赤光あり。白色には白光あり。微妙香潔なり」(同三一六/同五二)と説かれている。

光明の種別]

光明には種々の種類がある。龍樹の『智度論』四七には「光明に二種あり、一には色光、二には智慧光なり」([1]と言って色光智慧光とが挙げられる。法蔵の『華厳経探玄記』三では「光明に二種あり。一には智光、二には身光なり」(正蔵三五・一四六下)と言う。この二種は内光と外光とも称され、基の撰と伝えられる『阿弥陀経通賛疏』中では「光に二種あり、一には内光、即ち智なり。内に理を照らす。二には外光、即ち身光は外照なり。これ即ち身光なり」(正蔵三七・三四二上)と述べている。これらは、仏陀の放つ光明に、仏陀智慧に基づくものと、仏陀の身体に基づくものがあることを示している。仏陀の身体より放たれる身光には、常光と放光の二種がある。常光円光とも言われ、仏身から常に放たれる光で、放光とは現起光とも神通光ともいわれ、仏陀が様々な時に応じて発する光明である。また、仏の全身より放つ光を挙身光、白毫より放つのを白毫光、毫光、眉間光といい、毛孔より放つのを毛孔光、頭頂より放つのを頭光、仏の像の背後から放つのを後光という。法然は『逆修説法三七さんしち日で光明を説明する中で、光明常光神通光とに大別し、常光を「長く照らし不断に照らす光なり」(昭法全二四七)とし、神通光を「これ別別に照らす光なり。…阿弥陀仏神通光摂取不捨光明なり。念仏衆生有るの時は照らし、念仏衆生の無きの時は照らしたまうこと無きが故なり」(同)と説明する。良暁の『決疑鈔見聞』三では「およそ仏仏に皆常光神通光有りて余仏の光明常光は一尋なり。神通光無量無辺を照らすも、今弥陀光明常光神通光も共に法界を照らす。但し常光三世常恒の光明なり。神通光は起不起有りて機の得益に随いて常光ほかに別の光明を指しゆるなり。すなわち九品来迎光明乃至彼土授記の光益等なり。今の念仏不捨の光明はかくの如きの神通光にはあらず。常光の上に仏の御意を相い副えて不捨の益有るを摂取の光と云うなり」(浄全七・四一二上)と解釈している。

光明利益功徳)]

仏・菩薩光明衆生を照らして、衆生に種々の利益を得させる。『摩訶般若波羅蜜経』一に「この光に遇うものは必ず阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいを得る」([2]といい、仏の光に遇うことで覚りを得ることができるという。『無量寿経』上では無量寿仏の放つ光明について「それ衆生あって、この光に遇う者は、三垢消滅し身意柔軟しんににゅうなんなり。歓喜踊躍して、善心生ず。もし三塗勤苦さんずごんくの処に在って、この光明を見たてまつれば、皆休息くそくを得て、また苦悩なし。寿終の後、皆解脱を蒙る」(聖典一・二三七/浄全一・一三)と言い、光に遇う者が利益功徳)を得ることができると説く。善導が『観経疏』で摂取不捨光明について述べていることに関して「念仏衆生に付いて光明の遠近有ると釈し給える事、殊に云われたることと覚え候え」(昭法全二四七)と前置きして法然は、「諸仏の功徳いずれ功徳も皆法界に遍くと雖も、余の功徳は其の相顕れたる事なし。但し光明を有りて正しく法界に遍るの相を顕せる功徳なり。故に諸の功徳の中に、光明を以て最も勝れたりと釈し給うなり。又諸仏の光明の中には阿弥陀如来光明猶を勝れ給えり」(同)と受領し論じる。先述のように、摂取不捨光明について良暁は『決疑鈔見聞』三で「今の念仏不捨の光明はかくの如きの神通光にはあらず。常光の上に仏の御意を相い副えて不捨の益有るを摂取の光と云うなり」(浄全七・四一二上)と述べている。


【資料】『観仏三昧海経』、『往生論』、『観念法門』


【参考】藤田宏達『梵文和訳 無量寿経・阿弥陀経』(法蔵館、一九七五)


【参照項目】➡十二光仏光明無量光明無量願


【執筆者:藤本淨彦】