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住蓮

提供: 新纂浄土宗大辞典

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じゅうれん/住蓮

—建永二年(一二〇七)二月九日。法然の直弟子。陸奥寺主実遍の息。建久三年(一一九二)の後白河法皇追善には安楽遵西じゅんさいとともに六時礼讃を修し、またともに東山霊山寺りょうぜんじでは別時念仏に加わっている。元久の法難においては、法然が門下を戒めた元久元年(一二〇四)の『七箇条制誡』に門下として名を連ねた一九〇名の一六番目に署名している。そして翌二年には藤原隆信ふじわらのたかのぶの臨終に遵西善知識をつとめている。続く翌三年二月になると、興福寺五師三綱ごしさんごうによって、法然をはじめ、成覚房幸西、法本房行空遵西らとともに、罪科に処せられるよう訴えられた。このとき行空法然破門されたが、住蓮らは直接の科を免れたようである。ところが、同年一二月後鳥羽上皇が熊野臨幸の間、住蓮は、遵西東山鹿ししたに六時礼讃を唱えた。これによってさまざまな風聞のうちに、上皇の小御所こごしょの女房ら二人の女人が出家した。これらが上皇の怒りに触れ、翌建永二年二月遵西は京都六条河原ろくじょうがわらで、そして住蓮は近江国馬渕まぶち(滋賀県近江八幡市)で斬罪となった。さらに法然らは流罪に処された。これが後に建永の法難といわれた。


【資料】東京大学史料編纂所編『大日本史料』四—八・建永元年二月一四日条(『三長記』)、同四—九・承元元年二月一八日条(『明月記』、『皇帝紀抄』、『愚管抄』)、『四十八巻伝』一二、三三(聖典六)


【参考】三田全信『成立史的法然上人諸伝の研究』(平楽寺書店、一九七六)


【参照項目】➡建永の法難遵西松虫・鈴虫


【執筆者:野村恒道】