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仏性

提供: 新纂浄土宗大辞典

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ぶっしょう/仏性

仏の本性・本質、または衆生に内在する成仏の可能性。如来蔵仏種と同義。如来性、覚性ともいう。Ⓢbuddha-dhātuⓈbuddha-gotraの訳。原語buddha-dhātuは仏陀の遺骨・身体を意味し、『大般涅槃経』に説かれる「一切衆生悉有仏性」は全ての衆生仏性が内在すること、すなわち仏陀の遺骨・身体が衆生に内在することを意味する。buddha-dhātuが「仏性」と訳され、仏性説が東アジアに広まる中で、仏性は仏となる性質と再解釈され、衆生成仏の根拠として広く浸透した。それに基づき、浄土教においては己心弥陀説などが説かれ、また日本では本覚思想が形成された。浄土教との関連の上では、『安楽集』第三大門において「輪廻無窮」が強調される中、道綽は「一切衆生は皆仏性有り」(浄全一・六九二下)と述べつつ、生死輪廻の中で仏道修行を怠ったがために、自身は今生にいたるまで仏性を顕現することができないとする。道綽末法凡夫として生を受けた今、もはや聖道門によって生死解脱を遂げることは難しいと自覚している。それを受けて善導法然も、無始以来輪廻を繰り返して出離生死の縁を持たない「罪悪生死の凡夫」という自覚を表明しており、成仏の可能性としての仏性にはほとんど言及しない。ただし法然門弟でも学問や信・証を重視する者たちは、仏性説を取り入れながら独自の思想を展開している。たとえば証空は『観経疏自筆鈔』において、外から仏の誓願の力が加えられるとともに仏性が内因となって信心がおこると説明する。また幸西は、弥陀本迹説を受用して「本門の弥陀は、無始本覚如来なるが故に、我等所具の仏性と、まったく差異なし」(『四十八巻伝』二九、聖典六・四五三)と説く。親鸞は、阿弥陀仏より「至心信楽」として真実心・大信心回向されると説き、『浄土和讃』において「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしとときたまう、大信心仏性なり、仏性すなわち如来なり」(『親鸞聖人全集』二・五七)と詠う。


【参考】高崎直道『仏性とは何か』(法蔵館、一九八五)


【参照項目】➡如来蔵法性性起弥陀本迹


【執筆者:齋藤蒙光】