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三想

提供: 新纂浄土宗大辞典

さんそう/三想

三種の悪想で貪欲とんよくそう(欲想)・瞋恚しんにそう(恚想)・殺害想せつがいそう(害想)のこと。三悪想、三不善想ともいう。『雑阿含経』二四には、「三想とは、欲想・恚想・害想なり」(正蔵二・一七二上)とある。貪欲想はむさぼりの想い、瞋恚想は怒りを含んだ想い、殺害想は人に危害を加えようとする想いのことである。『無量寿経』上には、「欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起こさず」(聖典一・二三四~五/浄全一・一一~二)とあり、法蔵菩薩はこの三想を起こさないで修行をしていたことが述べられている。


【資料】『長阿含経』八


【執筆者:薊法明】


三種の善想で出離しゅっりそう(出要想)、不恚想ふいそう、不害想のこと。三想または三善想といい、の三不善想(欲想・瞋想しんそう・害想)の逆である。『増一阿含経』一三に「復た三想あり。云何が三と為す。いわゆる出要想・不害想・不恚想なり。若し人ありて出要想あらば、命終の時此の人中に生ず。若し不害想あらば、命終の時自然に天上に生ず。若し人ありて不殺心ならば、命終の時に下五結を断じ、便すなわち彼の所において而も般涅槃す」(正蔵二・六一四下)とある。


【資料】『雑阿含経』一七


【執筆者:薊法明】


念仏を修するときに行者が抱く、仏に帰依をする想い(帰命想)、仏に導かれる想い(引接いんじょう想)、浄土往生した想い(往生想)の三種の想い。源信は『往生要集』大文第四「正修念仏」の観察門で、仏の相好白毫などを観相する念仏に堪え得ることができないもののために「或は帰命想に依り、或は引摂想に依り、或は往生想に依って応に一心称念すべし」(浄全一五・八五下)として、三想にもとづく称念をすすめている。また、永観は『往生拾因』に「もし観念に能わざるものは更に相い開暁して為に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称えて声々相次いで十念を成ぜしめよ」(浄全一五・三九三下)とし、さらに、このような称名念仏にも堪え得ないものには「只往生之思を作せ」(浄全一五・三九三下)としている。さらに、法然は『往生要集詮要』に「三想を用ゆ、謂く帰命想、引接想、往生想なり、此の中に引接想を以て要とす。故に臨終行儀の中に云く、願くは仏、引接したまえ、南無阿弥陀仏」(昭法全六)といい、三想中の引接想を最要であるとしている。良忠は『往生要集義記』五(浄全一五・二七五上)において、三想について、帰命想とは本尊を東に向け、行者は仏に向かって帰命すること、引接想とは本尊を西に向け、行者は仏の後に随って十万億国を過ぎるとの念をなすこと、往生想とは彼の国に生じおわって、見仏聞法するなどの念であると定義している。


【参考】和田典善「観想と観相—『往生要集』とその撰述前後の浄土教典籍を中心に—」(『仏教文化研究』五三、二〇〇九)


【執筆者:和田典善】