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宇都宮弥三郎頼綱

提供: 新纂浄土宗大辞典

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うつのみややさぶろうよりつな/宇都宮弥三郎頼綱

承安二年(一一七二)—正元元年(一二五九)一一月一二日。実信房蓮生れんしょうと称す。法然もしくは証空帰依した鎌倉初期の武士。下野国宇都宮の人。ただし、祖父朝綱は後白河院の北面の武士、祖母は醍醐の尼、母は六条長盛の娘とあるから京都生育の武士か。父業綱は三七歳で死んでおり、関東における頼綱は下野の小山政光の猶子とされ育てられた。元久二年(一二〇五)、出家した後も荘園を押領する(『吾妻鏡』)など、「いまだ念仏往生の道を知ら」ない状態だった(『九巻伝』七上)。承元二年(一二〇八)、熊谷直実(蓮生れんせい)のすすめで勝尾寺かちおでら法然を訪ねて熱心な信者となったという(『四十八巻伝』二六)が、実際は別荘の嵯峨中院亭で歌作にふけっていた。その後、承久の乱の後に北条政権に疎外されてから本気で入信したと考えられる。このときすでに法然はなく、西山善峰に証空の門をたたいた。嘉禄三年(一二二七)、叡山衆徒らによる御廟破壊のときは、一族で法然の遺骸を守り改葬に尽力した。藤原定家と姻戚関係にあり歌人としても有名。


【資料】『宇都宮系図』(『続群書類従』六下)、『吾妻鏡』、『四十八巻伝』二六(聖典六)、『九巻伝』(法伝全)


【執筆者:小此木輝之】