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「秦氏」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:31時点における最新版

はたうじ/秦氏

西日本に広く分布する秦人の伴造とものみやつこで、法然の母もその一族。『日本書紀』には応神一四年(二八三)弓月君ゆづきのきみが率いて百済から渡来したとするが、一般には機織はたおりや農耕に従事した新羅系の人びとといわれる。仁徳天皇の時代(三一三—三九九)に機織はた(秦)の姓を賜り、一族の一部が美作国久米郡錦織郷にしこりごう(岡山県久米郡美咲町)に留まった。錦織神社は秦氏氏神で、美作の秦氏は秦豊永の子孫が続いた。法然の母を秦氏とする伝記の初出は信瑞の『黒谷上人伝』と推定されている。誕生寺位牌には、「行年三十七歳 久安三年一一月一二日」とあるが、『知恩伝』上、『十巻伝』二では、法然開宗した後、弟の観覚と共に上洛し、法然草庵があった吉水のほとりに住んだという。源智造立阿弥陀如来立像胎内文書の「蓮仁等交名」(第一紙端裏書「遵西書写分」)には多くの秦氏の一族が結縁している。


【資料】『新訂作陽誌』二(山陽新報社、一九七五)、柴田実編『玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書調査報告書』(玉桂寺、一九八一)


【参考】平野邦雄「秦氏の研究—その文明的特徴をめぐって—」一・二(『史学雑誌』七〇—三・四、一九六一)、三田全信『成立史的法然上人諸伝の研究』(平楽寺書店、一九六六)


【執筆者:山本博子】