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「泉谷寺」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:28時点における最新版

せんこくじ/泉谷寺

横浜市港北区小机町。松亀山本覚院。神奈川教区№三一。武蔵国の触頭ふれがしらであった。元亨年間(一三二一—一三二四)良暁の弟𧇖慧えいえ定観によって草創された本覚院を、大永三年(一五二三)北条氏綱の臣二宮織部正が父の菩提のため見誉善悦開山に招き、地名に因み松亀山(小机山)泉谷寺とした。天正九年(一五八一)北条氏政より朱印状を受け、江戸時代には文禄年間(一五九二—一五九六)に徳川家康より、以後歴代将軍より一五石の朱印を受けた。家康、於大の方の位牌を安置し、葵御紋の使用を許され、末寺百箇寺を有し、延宝二年(一六七四)五月九日には水戸の徳川光圀も訪れている。開山善悦より五世東誉祖公まで檀林だったが、東誉が浅草誓願寺へ移ると檀林も移ってしまった。しかし、慶応三年(一八六七)滝山大善寺衰微により檀林が再び移され、明治二二年(一八八九)二月三日檀林制度の廃止まで、宗侶の養成に携わった。二〇世極誉恵頓は、著名な学僧で、現在も広く用いられている施餓鬼会表白宣疏恵頓の作という。二六世立誉了信は東海道五十三次で有名な安藤広重の義兄に当たり、その縁で天保九年(一八三八)頃広重は泉谷寺に逗留して杉戸の桜図八枚を制作した。


【資料】『蓮門精舎旧詞』一九(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』下(『増上寺史料集』七)


【参考】宇高良哲『近世関東仏教教団史の研究』(文化書院、一九九九)


【参照項目】➡泉谷瓦礫集


【執筆者:久米達雄】