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清浄華院

提供: 新纂浄土宗大辞典

しょうじょうけいん/清浄華院

京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町。浄土宗大本山法然上人二十五霊場第二三番。寺伝によると、開創は貞観二年(八六〇)、開山円仁、清和天皇勅願による創立で、もともと天台四宗兼学の道場であったが後白河法皇から法然が賜りこの時から浄土宗となったという。のちに三条坊門高倉に移転、一四世紀はじめ向阿証賢によって浄華院と改称。暦応二年(一三三九)足利氏の等持寺創建に伴って移転したようだが、永徳元年(一三八一)には土御門室町に移転している。この頃一条派寺院として京都における浄土宗寺院の中心的な存在にあった。向阿のあとは弟子玄心が継ぎ、以降証法・敬法定玄等熈とうきと継承されるが、伏見天皇の皇孫に当たる敬法が八世住持となると宮中との関係が一層深まることとなり、万里までの小路家こうじけとの師檀関係が確立した。敬法弟子良如は郷里越前国に融通念仏道場として西福寺を開創。九世定玄弟子隆尭は近江国安土に浄厳院を開き、広く道俗を教化布教圏を確立した。定玄は万里小路仲房の息子、一四世玄周は時房の息子というように万里小路家との関係により興隆を遂げる。正長二年(一四二九)一〇世等熈に下りた香衣被着の勅許も時房の斡旋によるところが大きい。等熈はのちに仏立慧照国師なる国師号を下賜されている。また一九世良真は伊勢貞国の息子、二二世秀馨は貞祐の息子というように幕府の政所執事を代々務める伊勢氏とも師檀の関係にあった。定玄から秀馨までの間には金戒光明寺をも兼帯したが、応仁の乱によって全焼し寺運も衰退する。この頃から浄華院金戒光明寺との間に本末関係、末寺に対する香衣勅許の執奏権、宝物類の所有等をめぐる確執が生じ、越前西福寺より住持となった三二世道残金戒光明寺住持に転住し独立運動を起こし、のちに慶長一五年(一六一〇)金戒光明寺紫衣勅許を得て事実上無本寺となる。近世になると豊臣秀吉による寺町の整備により現在地に移転、天正一三年(一五八五)田中村の五〇石を寺領として与えられた。この寺領は徳川時代になっても一四代家茂まで歴代将軍によって安堵されている。貴紳との関係は引き続き深く、元禄年間(一六八八—一七〇四)までの歴代住持は勅命によって任じられている。江戸期には宝物類が将軍御覧に供するため、あるいは出開帳のため江戸に運ばれることが多く、なかでも『泣不動縁起なきふどうえんぎ』は注目を浴びた。天明八年(一七八八)大火により全焼、復興には困難を伴ったが、ようやく江戸時代後期になって本堂庫裡・大方丈が建築されている。元禄九年(一六九六)の『浄土宗寺院由緒書』によると末寺五五箇寺を確認することができる。絵巻物『泣不動縁起』が国重要文化財に、絹本著色阿弥陀三尊像は国宝に指定されているほか、向阿筆「三部仮名鈔」も貴重。二十数点伝存する中世文書は中世浄土宗史上重要な位置を占める。


【参考】水野恭一郎・中井真孝編『京都浄土宗寺院文書』(同朋舎、一九八〇)、宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(正大紀要七一、一九八六)、中野正明「中世浄華院史の一考察」(『石上善應教授古稀記念論文集』山喜房仏書林、二〇〇一)、同「中世末期浄華院と金戒光明寺の本末争いについて」(『佐藤成順博士古稀記念論文集』同、二〇〇四)、佛教大学宗教文化ミュージアム編『学術調査中間報告清浄華院の名宝』(佛教大学宗教文化ミュージアム、二〇〇八)【図版】巻末付録


【参照項目】➡法然上人二十五霊場


【執筆者:中野正明】