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朝鮮仏教

提供: 新纂浄土宗大辞典

ちょうせんぶっきょう/朝鮮仏教

朝鮮半島に伝来し、そこで独自の発展を遂げた仏教をいう。三国時代・統一新羅しらぎ時代・高麗こうらい時代・朝鮮時代に区分される。

[三国時代]

朝鮮半島への仏教伝来は、高句麗・小獣林王しゅうじゅうりんおう二年(三七二)夏六月に前秦の王苻堅が高句麗に使者と僧順道(四世紀)を派遣して仏像・経典を送ったことから始まる。小獣林王は答礼の使者を遣わすが、同四年に再び前秦から僧阿道(四世紀)が派遣されると、翌年の春二月に省門寺と伊弗蘭寺を建立して順道と阿道を住持とした。

百済くだらには枕流王ちんりゅうおう元年(三八四)九月に東晋から摩羅難陀が来朝し、王が宮中に迎えて礼敬したというのが初伝であるが、その後約一〇〇年は仏教に関する記事がほとんど見られない。聖王四年(五二六)、沙門謙益が『五分律』の梵本を携えてインド僧倍達多三蔵と共に帰国してこれを翻訳した。同一九年には梁に朝貢して『涅槃経』の注釈書、医工画師、毛詩博士などが百済に伝わる。五三八年(一説五五二年)には、百済から日本に仏像と経論が贈られ、曇慧、恵聡(六世紀)、観勒などの百済僧が日本に渡り仏教文化を伝えた。

新羅では第一九代訥祇王(四一七—四五八在位)のとき、高句麗から沙門墨胡子らが来たというのが仏教の初伝であり、法興王一五年(五二八)に異次頓(—五二八)が処刑されたのをきっかけに国家的な公認を受けた。真興王一二年(五五一)には高句麗から迎えた恵亮が僧統に任命され仏教界を統率し、百高座法会と八関斎会を設けた。新羅を代表する人物に円光(—六四〇)と慈蔵(七世紀)がいる。諸子百家を通読するほど聡明であった円光は、隋に留学して成実・涅槃般若などを学び、帰国後『如来蔵経私記』『大方如来蔵経疏』を著した。慈蔵は善徳女王五年(六三六)に入唐して摂論教学を学び大蔵経を持ち帰り、帰国後は慶州芬皇寺に住した。

[統一新羅時代]

統一新羅は、中国から法相・唯識・華厳・密教・禅が伝来し多くの僧が唐に留学するなど、仏教が目覚ましい発展を遂げた時代である。この時代を代表する人物に元暁、義湘(六二五—七〇二)、義寂円測えんじき(六一三—六九六)、道証、太賢憬興きょうごうがいる。元暁は義湘と共に唐へ行く途中、「三界唯心・万法唯識」の理を悟って入唐を放棄し、国内で一切の経論を研究して中国の学者をも凌駕する仏教学者となり、『起信論疏』『金剛三昧経論』『華厳経疏』『十門和諍論』などを著した。義湘は唐に留学して華厳第二祖の智儼(六〇二—六六八)に師事し、帰国後は太白山に浮石寺を創建して華厳宗を広めた。その十大弟子の一人である義寂は法華・涅槃般若唯識も学び二一部六七巻もの著書を著した。円測は唐に留学して法相を学び唯識六家の一人として活躍後、基とは別派をつくり、その弟子道証は『唯識論要集』六巻を著す。新羅瑜伽の祖と呼ばれる太賢も唐で唯識を中心に学ぶが、その他華厳や元暁の和諍思想を継承し、円測や慈恩大師基両派の長所をとって唯識を集大成させる。憬興唯識を学び『瑜伽師地論記』『瑜伽師地論疏』を著した。唐の中頃からは禅宗が勃興し始め新羅にも伝来するが、特に洪州宗の馬祖道一門下系統の禅が定着した。

[高麗時代]

九一八年に朝鮮半島を統一し高麗を建国した太祖王建(八七七—九四三)は、高麗の建国が法力によると信じて仏教を保護し、多くの寺院を建立した。高麗時代には燃灯会や八関斎会をはじめ多くの儀式儀礼が催されたが、これは戦争や内乱、疾病、風雨などから国家を守り、国民を保護しようとする目的があった。この時代を代表する人物に義天(一〇五五—一一〇一)がいる。彼は入宋して華厳・天台・律などを学び、高麗に天台宗を開くことを誓願した。それは華厳の教観兼修思想、法華の会三帰一思想を重視し、当時地方豪族が支持していた禅宗を包括するためであった。入宋した際に多くの章疏を持ち帰り、遼や日本にも典籍を求めて『新編諸宗教蔵総録』三巻を編纂した。これは諸宗の章疏類を集めた目録であり、義天はこれをもとにして「教蔵」を刊行したが、すべてが刊行されたかは不明である。これを前後して、二度に亘り大蔵経が刊行された。これは高麗国王勅版の大蔵経で、最初を初雕しょちょう大蔵経、次を再雕さいちょう大蔵経という。初雕版大蔵経は、契丹きったん兵の侵入に際し顕宗二年(一〇一一)に顕宗がその退散を祈願して雕造された。この事業は文宗朝まで続けられ、完成した版木は符仁寺に安置されたが、蒙古軍の侵入により高宗一九年(一二三二)に焼失する。高宗は蒙古軍退散を祈願して再び大蔵経雕造を発願し、一六年の歳月を経て高宗三八年(一二五一)に完成する。この再雕版大蔵経は守其が中心となり、宋の勅版大蔵経や契丹版大蔵経、初雕版大蔵経をはじめ高麗国内に流通していた典籍などを校訂して造られたため、最も完璧な大蔵経として評価されている(現在その版本は世界文化遺産に登録されている)。朝鮮時代には日本からの要請により多くの大蔵経が伝来しているが、増上寺の高麗版大蔵経もその頃に伝来した。

[朝鮮時代]

朝鮮時代は儒教を統治理念とする専制君主国家であったため、仏教は弾圧された。太宗は各寺院の居僧・田地・奴婢を整理し、仏教各宗を曹渓・天台・華厳・慈恩・中神・総持・始興の七宗に改編・統合して全国二四二箇寺を公認寺院とし残りを廃寺にした。その後、世宗が七宗を禅・教の両宗に統廃合し、全国三六箇寺を本山寺刹とし、各寺院の田地・居僧数を制限する。しかし、世祖朝や明宗朝には崇仏政策が執られる。世祖朝には昭憲王后の冥福を祈り『釈譜詳節』が作られ、刊経都監を設置して多くの仏典が諺文おんもんに翻訳後刊行された。また、明宗朝には禅教両宗の僧科が認められ、度牒制・僧選制が復活した。こうして庶民や婦女子の間には仏教が深く浸透していった。

朝鮮時代までは僧尼の戒律は厳守されていたが、日本による統治時代には日本仏教の影響により妻帯する僧が現れた。ところが、戦後再び僧の妻帯が禁止されるなど寺院の生活が正された。現在は、韓国仏教の第一党である曹渓宗、その分宗であり妻帯が認められている太古宗などの伝統仏教教団があり、新興仏教として円仏教、真覚宗、元暁宗、法華宗、仏入宗などが成立している。

また、中国の隋唐時代には浄土教が隆盛したが、同じ頃新羅でも盛んに研究されていた。新羅浄土教の特徴は『無量寿経』と『阿弥陀経』を中心に研究された点であるが、『観経』の注釈書も各目録に見えることからその研究が全く無かったわけではない。また、四十八願の一つ一つに願名をつけ願文解釈した人物は法位が最初であるが、玄一義寂憬興なども異なった解釈をしており、こうした点も中国では見られない特徴である。浄土教においても、弥陀弥勒が並行して信仰・研究されていた。新羅の浄土教は、元暁義寂・円測・太賢憬興などに代表されるように、華厳や法相の思想に立脚しながら弥陀弥勒浄土思想を受け入れたことから、総合仏教として位置づけられていた。


【資料】『三国遺事』、『三国史記』、『高麗史』、『海東高僧伝』、『朝鮮王朝実録』


【参考】恵谷隆戒『浄土教の新研究』(山喜房仏書林、一九七六)、鎌田茂雄『朝鮮仏教史』(東京大学出版会、一九八七)、同編『講座仏教の受容と変容五 韓国編』(佼成出版社、一九九一)


【参照項目】➡浄土教


【執筆者:馬場久幸】