善光寺縁起
提供: 新纂浄土宗大辞典
ぜんこうじえんぎ/善光寺縁起
善光寺ならびに本尊一光三尊阿弥陀如来像の由来を記したもの。善光寺縁起の初見は現存する資料では『扶桑略記』で、『伊呂波字類抄』『覚禅鈔』『平家物語』『吾妻鏡』などにも部分的に引用されている。完本としては『続群書類従』の真名本が最古の縁起である。善光寺縁起は『請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪経』の月蓋物語がその基となっているが、この経には如是姫は出ていない。真名本の概略は、天竺毘舎離国の月蓋の娘如是姫が悪病にかかり名医にも見離されたが、釈尊の教えにより念仏を称えると、西方浄土から阿弥陀三尊が現れ白毫からの光明により、姫の病とともに多くの人々を救った。月蓋はこの仏の姿を留めたいと釈尊に願い、釈尊は目連尊者を竜宮城へ遣わし閻浮檀金をもらい、それを鉢に入れ、阿弥陀仏と釈迦仏の白毫からの光に照らされると、本仏と同じ姿の阿弥陀仏と観音・勢至菩薩像が出現した。月蓋は大いに喜びお堂を建てこの仏像を絶えず礼拝した。その後、この仏は月蓋が生まれかわった百済国聖明王を救済すべく、天竺から百済へ飛来した。さらに、仏は欽明天皇代に日本へ渡るが、崇仏廃仏の争いにより難波堀江に沈められる。信濃国麻績郷(飯田市座光寺)本田(多)善光が国司の供をして上京し、難波堀江近くを通ると、金色に輝く仏が池から善光の背中に飛びついた。驚く善光に月蓋、聖明王の生まれ変わりであることを告げた。善光は如来との縁を知り信濃の地へ仏像を運び安置し、如来堂を建てその名を善光寺とした。このような真名本をもとにして、以来江戸時代に至るまで数多くの縁起が生まれた。また布教伝道のため縁起を掛軸にした絵伝『善光寺如来絵伝』も鎌倉時代から造られ、現在『根津美術館蔵三幅本』・安城市『本証寺蔵四幅本』・岡崎市『妙源寺蔵三幅本』の三種は国重要文化財、加えて岡崎市『満性寺蔵四幅本』・長野市『善光寺淵之坊蔵三幅本』・滋賀県高島市『太子堂蔵四幅本』・甲府市『善光寺二幅本』・藤井寺市『善光寺一幅本』以上八点が中世に溯る作品といわれている。これらの絵伝には真名本以前のものもあり、その内容の多様性は興味深いものがある。
【資料】若麻績侑孝監修『縁起堂淵之坊本善光寺如来絵伝』(淵之坊、二〇一三)
【参考】坂井衡平『善光寺史』(東京美術、一九六九)、倉田邦雄・倉田治夫編著『善光寺縁起集成Ⅰ』寛文八年版本(竜鳳書房、二〇〇一)、『真宗重宝聚英』三(同朋舎メディアプラン、二〇〇七)
【執筆者:若麻績侑孝】