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非神話化

提供: 新纂浄土宗大辞典

ひしんわか/非神話化

ルドルフ・ブルトマン(Rudolf Bultmann一八八四—一九七六、ドイツの新約聖書学者)によって提起された聖書解釈の方法論。マルチン・ルターの宗教改革に端を発するプロテスタント神学において、聖書の歴史的批判研究の成果を踏まえて、新約聖書の神話的表象をハイデガーの実存哲学を援用しつつ実存変革の表現として理解する護教的試み。二〇世紀後半のキリスト教界において、ヤスパースとの一大論争を引き起こし、仏教界においても、歴史的ブッダ理解や浄土教非神話化というような話題として論じられた。ブルトマンによれば、非神話化とは「伝統の、ないしは聖書の諸命題の批判的な減価によって、信仰を現代にとって受け入れ易くしようとする意図を持つものではない。かえって、キリスト教信仰が現代人にとって何であるかを明らかにし、それによって現代人を決意の問題の前に立たせようとする意図を持つものである」から、「科学によって規定された世界像の中に住むことから現代人に対して生じる障害を取り除くことから出発する」(『聖書の非神話化批判』九〇頁)という。また、ブルトマンは歴史の意味を常に現在にこそ見出そうとし、神話に含まれる意味の実存的理解・内面的信仰的理解を提唱する。そこでは、聖書は個別的に実存する「わたし」に語りかけられた神の言葉であり、「わたし」に真実の実存を与えるものとして受けとめられることになるのである。

浄土教における非神話化問題]

浄土教経典が説く「指方立相阿弥陀仏とその浄土」「捨此往彼蓮華化生往生」「臨終命終時の仏・菩薩来迎」などが、ブルトマンの言う意味での神話的表現と見なすことができる。科学的知識を信じて疑わない現代人にとって、神話的表現が「疑い(偽り)のつまずき」となり、経典が説く仏道の真実への道が妨げられるとすれば、浄土教においても非神話化的アプローチの必要性が生じる。それは、経典を現代にあわせて合理化するのではなく、信仰の言葉として「わたし」のこととして主体的に捉え、この現実がいかなる状況であろうとも、自らを仏道信仰へと決断させるものとして解釈していくことに通じる。法然専修念仏の教えそのものが「教えをえらぶにあらず、機をはからうるなり」「ただ一向念仏す」という態度による、浄土教経典への一種の非神話化であるともいえよう。藤吉慈海浄土教経典の非神話化世親に始まるといい、浄土宗教義においては七祖聖冏・八祖聖聡の教説に宣教の非神話化を指摘し、近代に入っては椎尾弁匡山崎弁栄によって浄土宗宣教の非神話化が見られるという。


【参考】R・K・ブルトマン著/山岡喜久男訳『新約聖書と神話論』(新教出版社、一九五六)、同著/中川秀恭訳『歴史と終末論』(岩波書店、一九五九)、K・ヤスパース他著/西田康三訳『ヤスパース選集第七巻 聖書の非神話化批判』(理想社、一九六二)、藤吉慈海「浄土教の非神話化について」(『浄土教思想研究』其中堂、一九六九)、清水澄「ブルトマンの非神話化について—浄土教との関連において—」(『浄土宗学研究』一、一九六七)


【執筆者:藤本淨彦】