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清海曼陀羅

提供: 新纂浄土宗大辞典

せいかいまんだら/清海曼陀羅

平安時代の中期に超昇寺の清海が感得したと伝えられる紺地金銀泥の図絵。浄土三曼陀羅の一つ。『建久御巡礼記』には、清海興福寺出家し、超昇寺に移り念仏堂をたて浄土往生不断念仏を修したとある。また、超昇寺では、この曼陀羅を本尊として七日七夜の大念仏が行われていたという。袋中浄土第三曼荼羅略記』によると、清海当麻曼陀羅と両界曼荼羅を求めに京都に行く途中に、山城国木幡のあたりで老翁に出会う。事情を話したところ老翁が作るというので、絵絹を渡し念仏して夜をあかすと、翁は早朝、仕上げた三幅を清海に届けた。翁は清水寺の観世音の応現という。原本は天正年間(一五七三—一五九二)の兵火により焼失した。室町時代の写本が京都の聖光寺、仙台の成覚寺に現存する。図絵の下辺中央に八行八字の縁起文があり、清海が長徳二年(九九六)に感得した旨が記されている。中央に三尊会、宝樹会、宝池会、楼閣会があり、外辺に蓮華座一六を描く。上下に各三、左右に各五あり、中に観経十六観の偈頌が四行二〇字で書いてある。


【資料】『建久御巡礼記』(藤田経世編『校刊美術史料 寺院篇』上、中央公論美術出版、一九九九)


【参考】元興寺文化財研究所編『日本浄土曼荼羅の研究』(中央公論美術出版、一九八七)【図版】巻末付録


【参照項目】➡清海清海曼荼羅合讃浄土三曼陀羅


【執筆者:塩竈義弘】